鎖に繋がれて 3.5スタジアムの片隅にて
プレシーズンマッチが終わった日のジーノと持田のジノモチ的な会話のシーンです。あんまり本編に影響がない部分なので読み飛ばしても特に問題はありません。どうしてこの二人は仲良くなれないのかっていう説明と、ジーノもアレな状態だけれど、持田も大概状態が悪い時期でだっていう、そういう説明のお話です。
控室そばの自販機前。
帰り支度が済んでほとんど人気がない中、プレシーズンマッチを戦った両チームの10番同志が立ち話。人目をはばかるように小声でクスクスと意味深な笑いを浮かべていた。
「フフ、ひどいよ、モッチーは…」
「ハッ、お前がコネーのなんてわかり切ったことだからな。弱点あ利用されたくなきゃ克服したら?」
「意地悪だね、全く。ボクがおとりになってることもすぐ見抜いちゃって。あとさ、あんまりバッキーいじめないであげて?」
話しているのは終盤の、ジーノがチェックに来ないと踏んだ持田のプレイのこと。ジーノは持田の頬を撫で、持田はそんなジーノの耳たぶを軽くつまむ。そうやって二人子どもみたいにじゃれ合っている。
「あー、あの7番の事?」
「うん」
「結構いいじゃん、あいつ」
「でしょう?」
持田は話をしていて気になった。ジーノのあの癖がまた出ていた。フラフラと視線が空を舞い、話をしていてもちっともこっちを見ない。ジーノの記憶の混濁や消失は以前もみられた現象だったが、ジーノの父親を迎えに寄越した例のあの日以来いつもその症状は一過性のものだった。なのに久しぶりに1月に会って感じたのは、症状が以前に比べてかなり混沌とした状態になっているということだった。そして今、気軽に話すジーノの言葉が、まるで昔見たからっぽの王子の様な姿に良く似て見えた。
「お前さ」
「?」
覗き込んで少しして、会話への集中の努力を続けていたジーノはふらりと立ちくらみを起したかのようにバランスを失う。
「…あ、ちょッ!」
持田が慌てて腰を支えると、ジーノもまた持田の腕を掴んで倒れないように耐えた。食い込むようなきつい握力。唇の色が褪せて真っ白な顔。倒れることはなかったがジーノはまるで自嘲するかのように鼻で笑うと、そのまま脱力するように自販機にもたれかかり、ずるずるとへたり込み、その額には冷たい汗が滲み始めていた。
「大丈夫か?」
「やー、なんか試合久しぶりで疲れちゃっ…」
頼りなげな苦笑。それで何かが誤魔化せるつもりでいるのかよ。持田の感想は正直そういうものだった。
「お前さ…あれから練習に合流して…大丈夫だった?」
「…なにが?…絶好調だよ?楽しいんだ。新しい監督、達海監督って言うんだけどね?もうしっちゃかめっちゃかで面白い」
嬉しそうに少しはにかむように笑うジーノに、持田は複雑な心境。中学生の頃、何度となく二人で試合を見に行っていた自分に対して、今更初対面のように新監督の紹介を行っている。今日初めての論理を踏み外した内容の話題。今誰と何を話しているつもりなのか、あり得ないミス。明らかにジーノの思考が現在進行形で錯綜している証拠だった。
「今日なんてキャプテンマークまで…フフフ、前代未聞だよねぇ?笑っちゃうよホント」
「そっか…」
「あの人、面白い。なんだかすごく毎日が色々と賑やかで楽しくて…こういうの、ホント久しぶりな感じで…」
そう呟くジーノの遠くを見つめる目に映し出されている光景が何であるのか、持田にはわかっていた。本人の意思にかかわらず自動的に想起されるそのイメージはこれまで何度も語られてきた、あの強い夕日の中の自身の再生の瞬間の映像なのだろう。大切なお守り。そして次にジーノが感じるのはその喪失の雨の夜。いつものこと。今、再び目の前に現れたお守りをこの男は直視することが出来ないでいる。
「なんか珍しくボク調子がいい気がする」
確かにジーノは今日とてもいい動きをしていた。そしてそれは前半だけだった。後半に入るとガクリと運動量が落ち、そして相変わらず終盤の要のシーンでは呆気なく持田を通してしまった。集中力が切れると途端に緩慢なプレイになってしまうのも相変わらず。ジーノはさっき話していている際にエースを呆然と見送ったシーンの記憶をあまり持っておらず、必死で辻褄を合わせようとしていることを持田に感じさせた。付き合いが長く勘も鋭い持田には当然隠せるわけもなく、ここまでボロボロではチーム内で今一体どういう生活をしているのか、果たして無事にやれているのか、大きな危機を感じた。
「…お前大丈夫か?」
「なに?大丈夫って…」
「なんかグッチャグチャ…だけど」
隠匿。誤魔化し。そんなものを意図しているのであればまだしもよかったのに多分違う。あまりにも断片的であり破たんし過ぎている。
「嘘…見てて結構ヤバい感じになってる?」
ふいに浮かぶジーノの本音。目の奥の色濃い不安に持田は悲しみを覚えた。破たんを自覚できていないのか、と。
「いい、ジーノ、わかった」
「ボク、今…どういう…」
「いいって、そういうのも何も今初めてのことじゃないし」
「……」
「ジーノ?」
たゆとうジーノの視線が更に不安の深さを映しだす。気の置けない旧友の投げた石で呆気なく闇が広がり始めていた。意識の混濁、不正な記憶想起。
「ジーノ、いいから落ち着け」
「…よく…わからないんだ…でも…」
「いいって、やめろもういい」
途切れ途切れの話し方。ジーノの変質を肌で感じた持田は咄嗟にそんな声掛けをしてみたが、時すでに遅しだった。危うい薄氷のような明るい王子像はみるみる音もなく砕け散っていく。虚ろな視線。硬直する体。飛んでいく。もしくは、みるみる落ちていく。
「…そう…な…ボクもう…」
唇が震え、何かを言わんとしていることは伝わるが、もうそれは言葉の体(てい)をなしていなかった。しばらくするとジーノは床にへたりこんだまま、無表情でぼんやりとした状態になり始めていた。あぁ、また、と持田は小さく舌打ちをする。
「いい。大丈夫落ち着けって。お前今少し試合後で興奮してるだけだから。ちょっとテンション下げろ」
目を開けながら夢を見ているようだった。アウェイのスタジアムの廊下の片隅、蛹化が始まるのはあまりにも不用意な出来事。
「ジーノ、ほら、大丈夫。ちゃんとコントロール出来る」
「…ん…」
持田がきゅっとジーノの手を両手で掴む。これは元々人との接触がジーノを冷静にさせることを知る持田の癖。おまじない。それが転じてジーノ自身がいつの間にか人を落ち着かせるときに使うようになった、安心を呼び起こすための行為。あたたかさを感じながらジーノが深呼吸をする。目をぎゅっと瞑る。
「落ち着いたか?」
「ありがとう…大丈夫」
少しだけ落ち着きを取り戻したジーノの姿を見て持田はホッとした。素直に受け答えをしているジーノはまるでトレセンで出会ったあの頃のように幼く見えた。観念して余計なタスクを外して最低限のことだけこなすことに決めたのだろう。状態が悪い証拠だ。
「…今日ボク、どうだった?ちゃんとサッカーやれてた?」
ついさっきまで試合について話をしていたところだった。キャプテンマークをつけさせられた、前代未聞だと笑ったジーノはここにはもういない。そんな情報すら追えないところまで下がらないともたないのか、と持田はジーノの観察を続けた。
「ホントは…いろんなことがよくわからないんだ。なんだかゴチャゴチャしちゃっててさ…ボクは今日、楽しめてたんだろうか」
「楽しんでたよ」
「そう?」
「前半のアレは達海さんの指示だな。面白いことやってくれてたよ全く」
持田に言われてホッとした表情をしつつも、気を抜くとついさっきの出来事まで飛ぶジーノはやはり不安気な気持ちを隠し切れないでいた。危うかった。
「どうしてこんな…」
「…ジーノ、深呼吸」
言われる通りまたジーノは深呼吸。剥き身の脆さが表出するこの状態に入ってしまったジーノはこれでもまだ自己表現をするだけの正気を保っている。だが、がらんどうの王子に戻ってしまうとまたこの状態に入ることもままならない。失語に陥るか、あの時と同じように反射的にその場にふさわしい回答を返すだけの人形になってしまうだろう。
離れていた時間が長すぎて持田には情報が圧倒的に不足していた。対策を立てようにもジーノの今の症状のことがなにもかも理解出来ない状態だった。持田は迷っていた。話は聞きたい。不安定なこの男を今動かすのは危険。だがあまりにも場所が悪い。
「…犬を飼ったんだ」
ジーノの何かを伝えようと発する言葉は断片的で取り留めもないものばかり。
「ウナギをね?食べに行こうって…」
いつもの会話が始まった。取りあえず思い浮かんだものを適当にかいつまんで言語化する努力をしているその姿。ジーノは今言葉と思考が失われていく恐怖と戦っている。自分を取り戻す旅を始めようとしている。いきなりこんな不用意な場所で。あり得なかった。もうこいつはこれほどまでに、あまりにも駄目だ。持田は思った。
「…お利口なんだよ?」
この調子ならどうせまた言葉が止まる。持田はジーノの話に付き合いながら今後のことを思案し始めていた。
「手ぇ冷たいな、お前」
持田はそう言ってジーノの手を摩る。
「あぁ、そうだ…この前ボク貰ったアレさ…モッチー食べたことある?」
「さあな」
知る由もないプレゼントの話に対して、持田は適当に相槌を打ってやると突然ジーノはお構いなしにクスクスと笑いだす。
「ホント面白い…ボクにぴったりなんだって…」
どこに心を飛ばしているのか。しばらくしてすっと表情が消えて耳をすますような素振りをするジーノを見た時、あぁ、またあれもかよ、と持田はイラついた。
「…音が聞こえる…」
「そうか?」
「なんか雨降ってない?」
ほら、始まった。当然それは幻聴だ。今は付き合ってやる心境でもない、勘弁してくれよとクサクサとした思いが湧いて出る。
「気のせいだろ」
「だって…モッチー、足は?」
「平気平気」
「嘘だよ平気なわけない」
「……」
「キミは大丈夫じゃない。ボクが大丈夫じゃなくしたんだから」
医務室で過ごしたあの日は確かに雨が降っていて、飛ばされていったジーノの心が今どこにいっているのか、その言葉から察知することが出来た。案の定取り留めもない話をするジーノはドンドン自身の心に深入りして、かつて負った深手に触れ始めていた。もう10年も前のほんの些細な事故の話。そんな自責ですらこうしてずっと抱えて生きている。ジーノの治らない傷跡。カサブタを無理矢理はがすがごとき行為を持田は何度見続けてきたことだろう?持田は二人過ごしてきた時を思い出しながら、これからどうする?と思案する。難しい判断。考慮せねばならない問題点が山ほどあった。
「痛いんだろう?」
「痛くないって」
憮然として返事をする。何度となく繰り返した不毛なやり取り。ジーノは必ずこうして振り出しに戻っていく。ボクのせいだ。お前のせいじゃない。激論を交わしたこともあったし、水滴のように根気よく言い含めていた時期も、黙って無視しただけの時もあった。この癖のような悪い時間が過ぎて我に返るとジーノは必ずこの上ない悲しげな表情を浮かべて迷惑をかけたと言っては自分を責め、それでもまた時期が来るとこうして自らの不毛な論理を内部から取り出して見せては苦しむことを止めなかった。全く最悪だ。これは互いにうんざりしながらも抜けることが出来なかった、二人が二人でいられなくなった原因の一つでもあった。不快な思い出の多いこの国で生きるジーノにとってのなけなしの他者との接点はとても歪んでいた。相変わらずこいつろくでもねぇなぁ。持田は溜息を一つ。
実際ジーノの言うように足の状態は悪かった。試合前には気休めにしかならない痛み止めを服用することをやめることが出来なかった。持田はシーズン直前フラストレーションのたまる現状に、気の置けない友人であるジーノに八つ当たりするかのように、痛い、そうだよお前のせいだ。そう吐き捨てるように言ってしまいたかった。ジーノもそれを強く望んだ。でもそのことに一体なんの意味がある?
「…言って?」
「ジーノ」
「痛いんだろう?」
「……」
「ほら」
二人が引き合えば悪い結果が生じる。依存と甘えが悪意を生み、更に駄目になることはわかっていた。不安定なジーノと自分の不安定。引きずられるように、持田が小さく呟くまでそう時間はかからなかった。
「…うっせぇんだよ!イチイチ今更…」
あまりにもなにもかもタイミングが悪い出来事だった。イライラを吐き出した持田がハッと我に返ると、さりげなさを装うジーノは自身で口元を抑え震え、その呼吸は少しずつ乱れ始めていた。過呼吸の兆候だ。何回となく目にしてきた症状が始まりつつあることに、くそ、またやったか、そう感じていた。
「ジーノ息吐け、ゆっくり、深く吐いて、ジーノ、大丈夫だから…」
悲鳴のような、でも実際には消え入るような声しか出せていないジーノの口元を持田が更に上から手で軽く押さえて洋服の首元を少し緩めた。掴む反対の手首の脈拍。動悸が激しい。でも、大人しく持田の処置に身を任せていたジーノの症状は少しずつ緩和しはじめた。しばらくしてジーノはやっとやっとといった風情で小さく、ごめん、と呟いた。
混乱している中でジーノが精一杯言葉を紡いでいる。だが取り留めのない言葉に交じりこむ症状を分析する専門用語やイタリア語の大半は意味不明で、混乱が伝播するだけだった。噛み砕いて説明する力も今のジーノにはなかった。
そう、二人は深い部分で共鳴してしまうので、互いが巻き込まれてしまう関係だった。わからないままに共感が広がり、今は二人の世界が真っ暗になっていく。
「だから…ボクの…で…二度と…、結局…」
「うん…そうだな」
「帰りたい…、Bellissimo Luogo… Ho mal di testa(頭が痛い)…」
「…俺もだよ…」
「帰りたい…」
「ジーノ…」
「もうない」
「だよな」
「限界だ」
「うん」
ジーノの混乱のどさくさに、持田もまた誰にも見せられない自身の重荷をちらつかせる。まだ辞めたくない。でも足はもう限界だ。いや、限界など誰にもわかりはしない。線引きは自分。ひしめく葛藤。ジーノの混沌に巻き込まれる形で広がっていくどうにもならない抱えきれない不安感。
「…俺もう考えたくない」
「うん」
「忘れたい、こんなこと。ジーノ、全部嘘にしたい」
「うん、全部忘れたい…嘘にしよう?モッチー」
ジーノがキーワードだけを抜き出して、オウムのように呼応する。ジーノの言葉も、持田の言葉も、相手に向けた形をしながら全く意味のないコミュニケーションとなっていた。それは会話?それとも自身との対話?相手を完全に自身に取り込んだままの状態で二人の言葉が空を舞う。二人にしか理解し合えないあの時間。不毛の世界。
「そう、忘れよう?ジーノ?」
「忘れたい…嘘にしたい…」
「うん」
「…無理だよ?…モッチー?」
「そう、無理だジーノ」
「嫌だ」
「知ってる。でも逃げ場なんて」
「……」
「いつものことじゃん」
ジーノの口元からカチカチと音がする。みるみる顔色が悪くなって小刻みに震え始めていた。歯を食いしばって眉を寄せて。
「なぁ、ジーノ」
「……」
「今から俺んち来る?うちとそっちのチームに話しつけてくるからここで少し待てる?」
「ん…」
返事をしながらも掴んだ腕を離そうとしない。駄目か。持田は思案する。どうする?あんまり長くはこうしていられない。しばらくしてジーノはやっとやっとといった風情で小さく、行って?と呟き、震えて掴んだ手をやっとやっと離した。
* * *
それを受けて持田がなにか言おうとした途端、遠くの方から声が響いた。
「おーい、ジーノー、どこだー」
よりにもよってジーノを探す達海の声だった。持田は驚き、ジーノもまた硬直した。慌てて二人は身を離した。
「あー。そんなとこにいたのか。みんな待ってるぞー。ま、俺もフラフラしててみんなのこと待たせてたんだけどね、一緒に叱られようぜ?ニヒヒ」
「あ…」
「あれ?お前、持田?二人ともあれか、知り合い?」
「まぁ、同じ東京出身の同年代なもんで。しっかしさー、達海さん…あんたって面白い監督だね」
「そりゃ、どうも」
「達海さん、あのさ?俺ら今から遊びに行くことになったんだよね。だからさ、こいつちょっと貸してくんない?」
「そうなの?」
固まるジーノにわざとらしく腕を組んで、いたずらっ子のような仕草で持田はそんな風に達海に話しかけた。硬直していたジーノは徐々に体の自由を取り戻し、不自然ながらも笑顔を浮かべてまるでいつもの気紛れな王子そのままのセリフを話し出した。
「いやだな、冗談だよ、そんなわけないだろ?タッツミー」
「おい、ジーノ」
表面上は二人ともいつもの調子。でも組んだ腕から伝わるジーノの激しい動悸に持田は動揺していた。掴んでいる腕に繋がるジーノの指先が真っ白になっており小刻みに震えている。多分氷のように冷たくなっているだろうと持田は内心舌打ちをする。
「ボクバスに乗ってみんなとちゃんと帰るよ?一緒にね。モッチーもからかわないで?」
徐々にぎこちなさがなくなっていくジーノの仕草はまさに王子そのもの。持田は戸惑う。相変わらず指先は真っ白なままなのに、優雅さが増すごとにカタカタとした震えも止まり硬直も取れていったその姿に。頼りないすがるような不安気な瞳もまた変化していく。ジーノの本意が読み取れない。
「やめろ。今は俺と一緒に行くんだ」
表面上は二人ともいつもの調子。前触れもなくいきなり言っていることが変わったジーノを持田はコントロールすることが出来なかった。この場をやり過ごすための平気なフリ?演技だろうか?と思ってみても、ジーノの様子がやっぱりおかしい。口裏を合わせようにも話がどうしようも噛み合わない。意図的な動きだろうか?制御不能の反射だろうか?
「モッチーって甘えっ子だから。こうして別れが忍びないっていつも泣くんだよね?フフフ、駄目だよ?お互い司令塔なんだからもっと協調性を身に付けてチームってものを大切にしなくっちゃね?」
「協調性?お前に言われる筋合いはねぇよ。約束だろ?来いよ」
「何言ってるの?そんな約束してないじゃない?またね?モッチー。次は勝つよ?」
「話が違うだろ?お前さっき…」
「ん?ボクなんか言ってた?」
持田はこのやり取りではっきりとジーノを取り逃がしたことに気が付いた。あの日ジーノは彼女が帰宅した途端、突然美しい貴公子に。そして今日ジーノは監督を目にした途端、ETUのための我儘な司令塔にあっという間になりきってしまった。ついさっきまであまりに状態の悪いジーノの姿を見ていた持田は、不安で強く腕を掴み離さなかった。ジーノは指の痕が付きそうなほど二の腕を掴まれて顔を歪める。
持田の剣幕に達海は少し驚く。でもジーノは素知らぬ顔をしてこう答えた。
「ね、そういうの痛い。やめて?」
「駄目だジーノ。今日は…」
「ボクの邪魔しないで?いい子だから」
あの日ジーノに何もできないまま女の家を立ち去ってしまったことをずっと悔いていた持田は今度こそはという気持ちがあった。勿論プライドが高い男だったのでずっとそんな重みを背負って生きてきたことなど誰にも言ってなかった。
遁走?どういう意味?以前そう持田が尋ねた時、ジーノはコントロールできない、記憶が飛ぶと言っていた。ジーノにはもうついさっき見せた自身のどうしようもないあの苦しみを自覚出来ないでいるのだ。
ジーノは掴まれていない方の手で優しく持田の頭を撫でて、そうっと掴まれた手を引きはなそうとした。それでも掴んで離さない持田を今度は睨み付け、強引にその手を振り払った。そうして軽やかに達海の元に歩み寄ってこう言った。
「モッチー、いい加減にするんだよ?いくらキミでもしつこいのは嫌いだ」
「おいおい、いいのか?ジーノ。別にかまわないのに」
「タッツミーボクがかまうよ。大体荷物はもうバッキーに頼んでバスに積んであるんだよね、ボク」
「ジーノふざけんな!こっち来いよ」
ジーノはそんな持田を切り捨てるかのような冷たい視線を向けた。
* * *
今度は遠くから城西が持田を呼ぶ声。一瞬迷ったが日を改めるしかないと考えた。今ここには達海がいる。自覚がなく何を言い出すかわからない男とこれ以上やり取りを続けるのはスクが高すぎる。
「ほら、呼んでるよ?」
「シロさんだな」
「早くキミも行かないと」
「わかったよ、お前も行け。可愛げのねー奴と絡んでないで俺も協調性とやらを大事にすることにするから」
「わ、素直だ?」
「ばーか。…じゃーな?」
状況が分からないまま傍にいた達海がやっと口を開く。
「結局どうすんの?」
「やめたやめた。達海さん、こいつのことよろしくね?気分屋でじゃじゃ馬だから乗りこなすの大変だけど。ま、せーぜー頑張ってよ。じゃあね」
足の痛みなど全く感じさせないように意識を集中させながら、素知らぬ顔で持田は立ち去って行こうとした。ジーノはその背を追いかけて耳元で小さく、また連絡するね?と告げた。だが、こういう時そういう言葉が聞こえていても一度も振り返らないのが持田の癖だった。
