飼い犬と飼い主 12 【1部完】
二人が二人してバラバラに過去の思い出を思い返してあーだのこーだの考えているだけの、ジーノとザッキーそれぞれのオフのお話。二人がどんな心境で新体制を迎えることになったのか。
ジーノのオフ~エスプレッソ
イタリアに帰省の連絡を入れたのは11月末ぐらいの頃の話。
「まぁ!そうなの?あなたは忙しい人だからそんなに長く居られるなんて久しぶりよね?あぁ、一日も早く会いたいわ。みんなもそうよ?イタリアに来るんだから、ちゃんと色々と顔見せしなきゃ。わかってるわよね?待っているわ。」
電話越しに聞こえてくる明るい母の声が嬉しそうに弾んでいた。その響きが耳を通して体に染み込んでいく間中、ふわっとイタリアのあの空気を感じていた。海の向こうの明るい強烈な太陽と抜ける様な青空、そしてあの情熱的な風。
そう、彼女の言うとおりこんなにゆっくりと家族で過ごすのは随分久しぶりのことだ。日本に来て一人暮らしを始めてからもう7年。改めてその長さに驚いた。昔あったいろんなことがつい昨日のことのように生々しく感じられる。そしてまた最近のことが随分昔の事のように感じられる。時間の概念、その流れ。ここ最近のボクには随分とあやふやなものになってしまっていた。
ほんの少しでいい、イタリアにいる彼らの元で眠りたい
そうでないと立て直しがきかない
そしてドクターに会いに行かなきゃ
もうプールからあがった直後みたいに常に全身がぐっしょりと重たい
なのに頭が小麦粉みたいにパサパサ、ポロポロ、渇き切っている
* * *
確かに11月、電話を掛けたあの時点ではボクは帰るつもりだった。イタリアで少し休み、ドクターにどうすればボクは続けられますか?と尋ねて。彼ならきっとボクにいい案を教えてくれるだろうと、そんな気持ちでいた。気持ちでいようとした。あの時期のボクは、未来を無理矢理夢見て、イタリアに行けばなんとかなるのだとそのことだけを支えにピッチに立っていた。
なんだけど
もうわかってしまった、先日のあのパーティ会場で。あの時、ボクは何一つ自分を制御できないところまでいってしまった。笑って立っていることすら、笑わずとも最後までさりげなさを装いながら居残ることすら出来なかった。
もはや今のボクは、ピッチ外ですら…
だから、いい案なんて、もう…
サッカーを続けるなんて、もう…
聞きたくない、ドクター
サッカーを辞めろなんてそんな言葉
だって死んでしまう、カルチョはボクのすべてなのに
* * *
今日は12月の何日だろう?暗い室内を見回せども、それを確認できるものが何一つ存在しなかった。
そして代わりに空間に浮かんでくる様々な映像。ナッツの笑顔、可愛い飼い犬の笑顔。味のしないスパークリング。目を刺すような強い明かりのシャンデリア。クラクラと眩暈を呼ぶ人々の無秩序な移動と仕草。遠いような近いような、どこから聞こえてくるのかわからない人々のざわめき。眺める程にふわふわと心許ない足元。そしてなにより、まるで自分だけがカプセルに閉じ込められてしまったかのような、このなんともいえない息苦しさ。今、ボクの脳裏にはあの会場での記憶の断片が浮かんでは消え、浮かんでは消えとまるでカーテンのようにひらひらと舞っていた。ベッドに沈み込むように倒れ込んだままのボクにはもう、それらが記憶であるのか、幻想であるのかもよくわからなかった。
遮光カーテンの隙間から侵入してくる光など一切ない24時間ずっと闇夜のようなヴィラの寝室。一人っきりで過ごす自由なオフの時間。起きる時間も寝る時間もご飯を食べる時間も気にする必要がない、本物のオフ。人に会わないで済む時間が手に入るといつもボクは何日経ったのかもわからない状態になってしまう。孤独だけど気楽。本当はこんな時間をカーサで過ごしたかった。そうすればボクはもう少し感覚を閉じることができるから。二、三日だけでもこうしていれば感覚がリセットされてまともに戻れるから。けれど、あそこはとっくに壊れてしまったのでもう使えない。どこで過ごすも一緒になってしまった。この手段が上手く使える場所が失われたことは、もう今更どれだけ悔やんでも仕方がないことなのだ。
だからボクは今、この不必要に広すぎるヴィラで一人、所在なさ気にぐうたらぐうたら怠惰に過ごす。中途半端に意識がさまよう不安定な時間。まだ部屋の風景が見える。まだシンとした音が聞こえてしまう。宙ぶらりんで全然リセット出来る様相がない、あやふやな時が流れていくだけ。
気が付けばポカンと口を開けたままでいたので、ボクは口の中と喉の奥と、ついでに体の芯の芯までカサカサに乾いてしまっていることに気が付いた。さて、そろそろこの暗闇によく似たあれでも飲むか、と、ゆっくりと体を起こす。
* * *
ヴィラのエスプレッソマシンは少々大げさな感じで苦手
それに空腹時に飲み過ぎると少し胃腸に堪える
けれど、今は気分的にこれ以外口に出来るものがないから仕方がなかった。本当は今口にしたいのは豆を挽くところからゆっくりと仕上げていくドリッパーで入れたあのコーヒー。実は長い間飲み慣れることなく苦手だったあれ。でも次第に口にしない日がないほど当たり前になっていったあの味。ボクはザッキーにあのマグをプレゼントされた時以来、マグにあわせてそれに見合うコーヒーを飲もうとドリッパーを購入し愛飲するようになった。そう、そもそもボクにはそんな習慣なかったのだ。だから当然ヴィラにはドリッパー自体なかった。
ここにはあのマグがない。そしてあのマグに合わせて買ったドリッパーと、それ用の豆がない。そんなことで、痛感する。カフェラテよりカフェオレを好む彼の為に、ボクはもうドリップでコーヒーを入れて飲む必要がなくなってしまったのだということを。
手慣れた仕草で賑やかなエスプレッソマシンのスイッチ一つ押して。色、音、香り。感じているのに感じているのかどうかもよくわからなかった。
マグとドリッパーの次に考えるのはカーサにあったお気に入りの直火式のエスプレッソメーカーのことだった。もともとカーサではあれで淹れたエスプレッソを飲むのが朝の習わしだった。ヴィラで作るもののほうが当然味的にも匂い的にも上質にもかかわらず、ボクにとってのエスプレッソとはあれのことだった。幼い頃から飲みつけた、いわゆるマンマの味だ。美味しいとか美味しくないとか以前の望郷の念に似た愛着。イタリアでマンションのIHでも使えるものを見つけた時は小躍りしたっけ。もうあれを常用しなくなってから随分経つ。そうなるくらいにあの子に貰ったマグのほうが気に入ってしまったから。とるに足りない小さなハッピーに包まれながら過ごした過去の自分を思い起こし、力なく苦笑いを浮かべる。電動式の本格マシンで仕上がったエスプレッソはいつもどおりとても濃厚でくっきりと香ばしく、なのになんの味も感じることが出来なかった。アツアツのはずなのに、マグの中ですっかり冷めてしまったあのコーヒーほども温かみを感じることが出来なかった。
味気ない、それでもとても濃いエスプレッソを飲みながら、ヴィラの賑やかな装飾を見回す。シンプルだけれど一つ一つがとても艶やかでイチイチ目に刺さる。女を変えるのと同じように気軽に変え続けたインテリア。思えばウブで背伸びのアジアンビューティの彼女をイメージして改装したのが最後にほったらかしだった。シャープなデザインとワインレッドを基調としたこの部屋、今までになく気に入っていた。でも今はその赤が血のべとつきに似て息苦しい。
皆がボクのイメージ通りだというこの世界観と、こうしてそれを眺めているちっぽけなボクの存在がアンマッチすぎてどうも落ち着かない。でも外も落ち着かない。カーテンは開けたくないのでもうずっとぴっちりと閉じられたままだ。カーテンだけでなく、ついでに目も開けていたくない気分。座り込んだソファから身を起すのも億劫だったが、だるくて仕方がないので寝室に戻り再びベッドに体を投げ出すことにした。
