雨に凍えて、真摯を重ねて
【17983文字】
その昔途中まで書いていた雨降って地固まる的な話。ハピエン信者ですが障害が好きです。この手の不安を抱えたままのプロットは私の基本的な性癖に当たる?何年も痛みと努力を重ね続けていく健気な二人の姿を、このめんどくさい雨の度に思い出していただければ最高です。(今年の雨は春物のコートも未だに時々出番があるほど寒いし晴れたら晴れたで馬鹿みたいに暑いし、しんどい天候ですよねまったく)
「知ってましたよ。王子はちっとも悪気なんてなかった」
今、背を向け合っている二人には互いの顔が見えない。
「相手する価値もないから全部仕方がないことだった。まぁ、だからこそ頭にきてたんですけど。自分自身に」
玄関のドアを出る前にけじめとして言う。何よりもあのジーノがこのままでは帰さないという態度なのだから。赤崎が求められているであろう別れの儀式を、それも礼儀だからと努力する。
「あんたがなんで俺に構うのか、本当に全然わからなかった。からかってんだろうな、とか。性格わりぃな、とか。ああ、俺王子のこと心底嫌いだわとか、なんでいちいちとか、サッカー関係ねぇとかつくづくうんざりして、時には頭にきてもうボコボコに殴ってやりたいとか、いつか見返してやるとか、そんなくだらなことばっかで自分が埋まっていって」
言いたくて言えなかった悪感情を、ひとつひとつ口に。
「なんだかんだ言いながら、結局ここでの日々は凄く……その、本当に、なんつうか俺、王子と、一緒にいられて、マジ、上手く言えねぇけど、なんだかんだそういうのも全部ひっくるめて幸せっていうと陳腐だけど、まぁ、そういう……で、だから、あの、色々と……あれッス、そう、感謝してるっつうか」
ジーノは特に返事もせぬまま、黙って背を向けて座っていた。聞いているのかいないのか。これが求められていた答えなのか。気にする余裕もない赤崎は、思いつくままに言葉を連ねた。
「苦しいこととか、辛いこととか。そういうこともたくさんあったけど。でもやっぱり王子の傍にいさせてもらえたこと、俺めちゃめちゃ楽しかったです」
そうしてもう一度今度はジーノの背中に感謝の意味で頭を下げて、赤崎は言葉をこう締めた。
「さようなら王子。これ、ありがとうございました」
カードキーを机に置いた音が鳴ると、小さな声でジーノが言った。
「~~~」
聞き取れない言葉のかわりに耳に届いたのは、ふふ、と溜息のような笑い声だった。同時に張りつめていた空気が微妙に変わった。
「ん、わかった。お疲れ、ザッキー」
長く続いた緊張が消えて、一気に全身の力が抜けた。自由を取り戻した途端、赤崎の濡れた手先、足先がじんじん痺れた。
*
「あぁ、初めてだな。こういう最後」
突然の明るい口調に驚かされて赤崎が顔を上げると、いつのまにかジーノが半身振り向いた形でリラックスした様子でこちらを見ていた。陽気でそれでいてどことなく色気を含んだ、魅力あるいつものあの口ぶりだった。
「じゃあ僕も同じに、ありがとう。毎日、支離滅裂で楽しかった」
難所を超えて日常に戻る。それを実感させるのに十分な、あまりにもあっさりとした一言だった。
「ありがとうザッキー。元気でね」
何の感慨もない。余韻もない。納得のジーノとは反対に、赤崎は拍子抜けして佇んでいた。
(終わり?これで?これだけで?俺達の今までが、そんな……たったの、こんな簡単な……)
そう、あまりにも簡単な。赤崎はこの感覚を知っていた。毎夜感じた、あの瞬間の。
*
空気は今、セックスの後、気恥ずかしく服を着こむ奇妙な時間に少し似ていた。ジーノといるといつもこうだ。余裕で、笑顔で、穏やかで、狂うはいつも一人だけ。
(王子は、そう、この人は一切乱れない。あがいても、もがいても、叫んでみても、結局髪の毛のほんの一本すら……)
だが、この悔しさも切なさも、これきり本当に終わりなのだ。
(一体、俺ら、なんだったんだろう。最後までわからず仕舞いだったな……この人の、そして俺らの過ごした日々のこと)
そう思いながら赤崎は、この呆気なさすぎる別れをただ大根役者のような態度で場を演じた。
「……じゃ」
肩を落とし玄関へ向かおうとすると、意外にもジーノに引き留められた。
「いい感じで帰ろうとしているところ申し訳ないんだけどザッキー」
「え?」
すらりと美しいあの仕草で、ジーノの指は赤崎の足元を差していた。
「床掃除が僕への最後の置き土産?」
辺りは水滴でびしゃびしゃだ。この深夜にそれはさすがにいただきかねるかなぁと言いながら軽やかに笑っているその姿に、赤崎はぶんぶんと乱暴に首を横に振る。
「いや!全然そんなつもりは」
「冷たいよザッキー、雨粒が飛ぶ」
「あっ」
咄嗟にポケットを探ってもみたが、ハンカチなどしゃれたものが入っているわけもなく、狼狽する赤崎に向かってジーノは澄まし顔でバスルームを指差した。
「ああ、そうか、バスタオルか、待っててください今取っ」
「違う」
バタつく赤崎をジーノが止める。
「その格好で掃除しても無限ループになるだけってことだよ」
「?」
「取りあえずその格好何とかしてもらえないかな。早く浴びて、適当に着替えて、それから『全部元通り』に」
一瞬の有無を言わさない冷たい命令。その様子に固まった赤崎に気付いてジーノはまた笑った。
「おやすみザッキー。あとはよろしく」
「わかりました、やっときます。おやすみなさい王子」
赤崎はこの別れ際のプレゼントが嬉しかった。掃除を理由に一旦は温まれと、そのさりげない優しさに気付いたからだ。だがバスルームに急ぐ男は、不思議なくらいに気付かないこともあった。
「……着替え、置いてあるから」
こんな独り言のようなジーノのつぶやきにも。入る前からすでにお湯の満ちていた湯船にも。これらはあまりにも日常に即した風景であり、この状況下でさえ何故こうであり得たのかを赤崎には察知する力がなかった。ジーノからわかりやすい示唆を受けない限り、赤崎は沢山のことを見逃してしまう。
(うんと綺麗にして帰ろう。最後だし)
真っ赤な指先をこすり合わせながら、赤崎は呑気なことを考えていた。
*
用意されていた着替えが部屋着である事にも気付かぬまま、無意識に袖を通して床拭きをやる。
(ったく、こき使うのだけは無駄に上手な人だよ王子は)
作業をしながら思い出すのはジーノとのほんの些細なやり取りの数々。思わず笑いが込上げる。
掃除は、赤崎がジーノとの生活の中で新たに身につけた特技だった。綺麗好きなジーノが心地よく過ごせるようにと、自然にコツを掴んでいったことだった。
(そう……そういえばこういうの本当に駄目な人だったよなぁ)
雨が嫌いで、濡れるのも嫌いで、拭いたタオルすら忌々し気に。ジーノは時々大人げなくて、赤崎はそれを腐しながらも床掃除も空拭きを念入りにやるように配慮していた。
本来、赤崎は召使ヨロシク扱われるなど、絶対に許さないタイプだった。だがジーノはそれを知りながら、赤崎を当たり前のように使いこなした。
(やったからって褒めるわけでもなく、って思ってたけど。あの人からすれば十分過ぎるほどの優しさだったのかもな。本来自分の持ち物をあれこれ弄られるのですら本当はきっと……)
思い出の数々に最初笑っていた赤崎だったが、徐々にそれが苦痛になった。もう今後は増えることがないのだ。二人のくだらなくも楽しい思い出が。
(……終わって見えてくるもんがあるって、本当なんだな)
切なくも、心を込めて掃除を続けた。もう二度とやる機会はないのだからと。
*
(風呂場と廊下はこんなもんか?あとはリビングの……)
モップの先につけたタオルは取り換えられるようになっているので、ここで新しいものに交換した。改めて部屋の方に歩みを進めながら掃除を続けると、再び近づいたリビングから物悲しい明かりが見える。暗がりに光るテレビが見ている人もいないままに、チラチラと独りよがりのショーを続けていた。
(ああ。王子、つけっぱなしのまま寝ちゃったのか。)
神経質で、驚くほどズボラ。綿密で理知的、でもすぐに忘れる。
(ふ……駄目だなぁ、あの人はいっつもそうだ)
そんなことを思いながら、ついでにリビングの床全体も掃除をし始めようと回り込むと、ソファの上の人影に飛び上がる。
「お、王子!?」
思わず大声を出しかけて、必死に口元を抑えて堪えた。そんな時、ふと寝崩れているジーノの何かに気付きかけて、けれど残念ながらしっかりと認識できるほどの時間はなかった。
「ん……あぁ、掃除もう終わったのか」
ジーノが目を覚ましてしまったのだ。
まだ終わっていないと返事するつもりが、それも待たぬままジーノが続ける。
「うん、いい子。ちゃんと綺麗になってるね」
綺麗だと言う感想の中にもまた、ジーノからのありがとうの気持ちがしっかりと見えた。この顔を何度も見てきたはずなのに、これほど自覚的に感じ取れたのは初めてだった。
(待て、今それどころじゃねぇんだ。混乱するな。なんだ?今なんか引っかかっ……)
「ん?」
「あぁ……い、いや……」
「ふふ、変な子」
(……待ってくれ。俺さっきなんか思ったんだよ今の王子に。でも一体?まだだ、待ってくれ俺このままじゃどうにも帰れない)
「じゃ、元気でね」
畳み掛けるように店じまいを始めるジーノに対して、赤崎はもたつき自分の心を伝えることが出来なかった。
(王子に早くなんか言わなきゃ。でも、ああ、全然何も思いつかない)
「どうかした?」
赤崎はまるでジーノの言葉を無視するが如く立ち尽くしていて、ジーノはそれを見ながら首をかしげた。
*
「何スかね。自分でもよくわからなくて」
赤崎の口からついて出た言葉は、こんな突拍子もないものだった。訝るジーノも当然の話で、赤崎も自分が何を言っているのかもわからなかった。
「今王子見て俺、なんか思って、一体それって何なんでしょう」
「ザッキー、それは僕に訊ねたところで何一つわからないよ残念ながら」
「……ですよね」
「まあ……うん、ともあれ僕はこれから寝直すけれど、君は帰るなりなんなりあとは好きにするがいいよ」
ジーノは何とも歯切れの悪い今への困惑を隠すこともなく、首を竦めて苦笑した。確かにジーノの対応に問題はない。そう、確かに問題はないのだが。
(あ、わかった……)
寝室に行くべくすり抜けていくしなやかな肢体を見た時、赤崎はようやく思考の引っ掛かりを捕まえた。
「王子」
そうして、赤崎が握りしめていたモップの柄は手を離れ、スローモーションで音を立てて床に倒れた。ジーノは己の手首をぶしつけに掴む赤崎を見ずに冷たく言う。
「何?」
返す言葉は未だ見つからなかったが、それでも赤崎は離さなかった。解放してくれというそぶりでジーノは僅かに手を引いたが、赤崎はお構いなしに握り直した。
「……ザッキー」
らしからぬ刺すような物言いだった。普通の人間ならば光の速さで手を引いただろうが、赤崎はやはりそうしなかった。
「俺に言いたいことありますよね」
「何言ってるの?」
「話したいこと。あるでしょう?王子」
「そんなもの別に」
「いや、ありますよ。言ってください」
「ないよ」
「ある。絶対」
「ないよ、何も」
そこにあったのは口角を僅かに持ち上げる、とても優雅ながらもデリケートな微笑だった。
「いいから。ね?」
あやすような、宥めるような、諭すような、それでいてどことなくいつもと違うのは陰り。
「いい?何が?」
「いいっていうのは、もういいってことだよザッキー」
「王子」
「……とにかく今すぐ眠りたい」
きつく掴んだその手の先には、よく見れば疲労の色濃いジーノが居た。
「そうですよね。疲れてますよね。それは何故?」
ジーノの表情はとらえどころがなく、具体的な何かを類推することは困難だった。
「また無視っスか」
「……」
「俺はちゃんと言いましたよ王子?」
ジーノは諍いではいつでも黙ってしまった。わかって欲しいと説明するより、わからない、知りたいと問うべきだった。それを諦め、ジーノを逃がし、自分が逃げて、だからこそ。向き合うことも、解決も、その日なんて来なかったのだ。
「もういいって。何がどう、もういいんですか……」
「それは」
ジーノは静かにただ繰り返した。
「もういいってことだ。ただそれだけ」
