Si,Anch’io.~ボクもだよ
【6430文字】
海外に興味のある赤崎が、ある時期からジーノの持つ本を借りるようになって、そんな二人の距離は次第に……出来てないジノザキが出来るまでの話。2年くらい前の没箱から。甘い話を意識して書き出した話だったんですが、固いし長くなりそうだったからぶった切って没にして、別のヤツ(Noi due per sempre. ~ずっと二人で~)を書き直した記憶。
「あ、あの……ちょっといいッスか?」
「ん?」
気後れしがちに話しかけてくる赤崎に対して、ジーノはニッコリ笑顔で返事をした。何度となく繰り返されているこの問答も、一応、これでもこなれてきたほうだ。
*
このやり取りが始まったのはつい最近だ。ジーノのロッカールームに投げ出されていたインテリア系の雑誌の陰に、赤崎の好きな選手が表紙の、冊子が見えたのが始まりだった。気になってチラ見している赤崎にジーノが気が付いて、これのことかい?とでも言わんばかりにそれを手に取りニッコリ笑った。これとはつまり、近々日本でも発売予定の○○選手の自叙伝だった。ジーノがこの時持っていたのは、イタリアで発売済みの原書版だった。
それは、奇妙な日本人としか思えないジーノの中にある、異国を実感させる出来事だった。つまり、個性としての違和感程度にしか思えない程、ジーノの順応が巧みである事を意味していた。
ポカンと口を開けて佇む赤崎に対して、ジーノはクスクスと笑いながらこう告げた。
「好きなの?」
「え?」
「この選手」
今、赤崎の心を捉えていたのは、わかっているつもりでわからなかった方の、見知らぬ異邦のジーノについてだった。けれど少し下世話にも思えて、モゴモゴ、口を閉ざしてしまう。
「あ、えぇ、まあ……結構今それ、海外で話題になってるみたいですしね」
「ふーん、そうなの?じゃ、貸そうか?もう読んじゃったし」
イタリア語なんて理解出来るはずもない。思わず嫌味かと眉を寄せれば、
「何?ムッとした?思った事が全部顔に出ているよ」
とジーノは鼻で笑った。
「そういう意味じゃないよ。日本語版と読み比べてみるのも面白いんじゃないかな?って思っただけで。もしかしてキミって性格悪いのかな?」
キミもどうせ勉強するならその方が楽しいでしょう?と、赤崎の手に半ば無理矢理本を掴ませる。
(ゲ、なんだ?一体、なんでそんな事知って……)
赤崎は、自分の名前すらうろ覚えの男が「勉強」についてのアドバイスをした事にひどく驚かされた。海外移籍への夢は秘密でもなんでもない。だが、他人に何の興味もないであろうジーノがそれを口にする違和を、赤崎が感じないわけがなかった。
「『お勉強』、頑張ってね」
「いや、いいでスって、あ!」
いらないとばかりに押し返す赤崎をさも鈍臭いと言わんばかりに軽く躱して、ジーノはヒラヒラと手を振って去っていった。その姿はまさにいつも通りの我儘王子で、本と戸惑いを手に、赤崎は呆然と見送るほかはなかったのだった。
「いらねぇって言ってんのに」
さも上から目線の物言いをされたのが悔しかった。まるで負けたみたいだった。だがしかしその本は、ジーノの狙い通り、赤崎のとても良い教材となった。重要と思われる箇所には印がついており、それを読み解く事で自伝を書いた選手のみならず、読み手ジーノの価値観にも触れられる、そんなオマケがついていた。
ただでさえラジオ講座のテキストよりも身近な内容に、身近な人間の解釈が入っている。日本語訳の本からは、下世話な言葉の意訳を見つけ、翻訳する人間の卓越した技術と苦労を知る事になった。視点の違う3人がかりの本の解釈は、とても愉快で楽しかった。
それから赤崎はジーノの持っている本に時々目を馳せ、その度、男に気付かれては、
「はい、テキストにどうぞ?」
というように、やがて差し出されるのが当たり前になっていった。
基本は真面目なサッカー関連書籍。時にはパパラッチよろしくゴシップ系のタブロイド。理解しがたいスラングはジーノに尋ねれば身も蓋もない率直な言葉で返事をくれるし、難解なシステムの考え方については端的過ぎる程の解説を受けた。遠い向こうのリーグの長い歴史を踏まえたジーノの語りは、赤崎の中に漠然と存在していた海外リーグへの心理的距離を一気に縮めた。何故ダービーがあんなにも熱いのか。何故あのチームカラーがあれとあれの組み合わせになったのか。日本語で翻訳しきれない原語の機微を、微に入り、細に渡り、それはそれは面白おかしく、勉強というよりも寧ろ続きの気になるドラマティックな映画を見ているような気分になった。日常の中でコミュニケーションを楽しんでいるうちに、そうとは意識もしない間に、赤崎の知見はみるみる広がっていく事となった。ジーノの現地人顔負けの知識の広さと、特有の話術の巧みさ。ともすれば嫌味とまで感じさせるジーノの灰汁は、最早完全に『稀有な魅力』に感じられた。若い赤崎が、ジーノに心酔していく事にそう長い時間はかからなかった。
*
借りていた書籍はいつしか借り貰いのようになっていく。お礼のつもりで赤崎がジーノを食事に誘えば、いつでもどんな店でも笑ってOK、ジーノはさも楽しげに受け入れてくれる。それはあまりにも意外な姿で、けれど嬉しい誤算であった。
(王子の気位の高さと高慢さに辟易する事も多かったけれど、でも、なんとなくわかってきた。大部分は俺達の方の誤解なんだ。そして王子は愚かな誤解を、笑って聞き流す度量を持ってる)
「あの……スイマセン王子、なんか今日は」
「何故?」
「いや、店員のミスなんだろうけど、結構待たされたし。揚句に来たと思ったら注文の取り違えとか……王子にとっちゃあり得ないッスよね?こういう雑な仕事ぶりって」
「何言ってるんだい。待ち時間もまた楽し、ってね?取り違えにしたってサプライズと思えば十分楽しめるさ」
「そ、スか?」
「そうだよ。ボクが我慢しないタイプなのは知ってるだろう?見たまま、そのままだって思えばいい」
「……」
「いやだなぁ、ザッキーったら信じてよ。今ボクは不機嫌な顔をしているかい?見たこともない料理だったけれど、実際物凄く美味しかったし、いい体験が出来たって思っているよ?」
ジーノは赤崎の気にする場面では必ずこうやって明るく笑った。気遣いではないと断言する事も含めて、それが手厚い配慮に思えた。
「一人なら気にもしないだろうに、ボクへのもてなしの心がキミをイライラさせていた。ザッキー。キミのその優しさで、自身の喜びをも台無しにする必要はない」
一緒に過ごせば過ごす程、その、人としての度量の深さと寛容さに圧倒される。プレイ上でのあのあまりにも傍若無人とも言える在り方が、おかげでより一層真摯なものに感じ始める。
(こんなにも寛大になれる人がピッチではああだっていうのは、この人の中にそれだけ人には譲れない、確固たる意志とビジョンがあるって事なんだろうか)
ジーノのサッカー観のみならず個人そのものへの興味は尽きることなく、赤崎は引き摺り込まれるように手を伸ばし歩を進め、どんどん深みにはまっていった。一つジーノの中にある解を提示される度、倍の疑問が湧いて出てきて、それを順を追って紐解くように、ジーノは赤崎に応えていった。
(俺ってこんなにも視野が狭かったんだな。狭い事を知らなかったんだ。王子を知るまで)
(もっと知りたい、この人の事を。この人を通して、もっと見知らぬ世界を知りたい)
*
「Ti piace la cucina italiana?(イタリア料理、好き?)」
イタリア料理のレシピ本を差し出しながらジーノは言った。するとそれに慣れ始めた赤崎なので、今ではこうして返事をする。
「はぁ、まあまあですかね」
「ふーん、聞き取りは大分慣れてきたみたいだね。なかなか賢いじゃないか」
「全然ですよ。なんとなくです」
「イタリア語で返せるようになるのはもう少し先かな」
「どうですかね。なんつーか色々男とか女とか名詞に性別があるってのが面倒くさくて、聞くのはともかく話すとなると、ちょっと」
「Si , Anch’io.」
「?」
「ボクも、って言ったんだ。こちらの文法にない概念だから確かに日本人には難しいよね」
「はぁ……」
「でもそんなの多少間違えちゃってたっていいのさ、なんとなくで。大丈夫、通じる」
「そッスかね」
「慣れちゃえばそんなもんだから」
慣れるまでが大変なのだと考える赤崎の思考回路と、ジーノのそれとは手順がまるで違っていた。赤崎は会話と書籍を技術と感性の習得の教科書とし、ジーノは自分の身の内にある感性を形にする為に、辞書のような使い方をする。赤崎が問うとジーノが探す。ジーノが赤崎にわかりやすいようにと丁寧に表現すれば、やはりその分だけ更に赤崎の探求心が煽られた。そんな日々の事をジーノは楽しいと言い、どんな馬鹿馬鹿しい事でも笑って応えるジーノの姿に、赤崎もまた喜びを感じるのだった。
*
その日二人が肩を並べて見ていた試合は劇的なもので、ハーフタイムになった途端赤崎は大きく伸びをしてからドサリとソファに背もたれた。
「疲れたー」
「ザッキー、途中から息するのすら忘れてたんじゃない?」
楽しげな笑顔、ペットを愛玩するかのような髪を梳く指先。そのまま当たり前のようにジーノはやんわりと赤崎の肩を引き寄せ、二人寄り添い時を過ごす。
後半はどんな展開になるのか。少しずつ荒さが増すプレイに、審判が抑制のためのカードを出すのはどの瞬間か。右サイドの自由奔放を相手チームはどう対策するのか。赤崎は思うままにジーノに問い、ジーノも考察をしながら赤崎に反対に問うたりする。弾む会話はあちらへこちらへ、二人が同じ道で生きる人間であった事を、一番感謝する瞬間だった。
エキサイティングな試合が終わり、アレコレ感想を言い合ったその後、五分、十分、時は過ぎていき、二人はやがて口を閉ざす。そうして、ただ一緒に過ごすこの一時を、どちらともなく堪能した。延々と飽きずに髪を梳く指先の感触がとても優しく、赤崎は自分の頬に触れているジーノの肩口の温かさにウットリしながら目を閉じる。あんなに楽しんでいたはずの試合の中身もそっちのけで、今はもうやがて壊れてしまう癒しの時間が惜しくて惜しくて、赤崎の気持ちがとうとう口元から溢れ出す。
それは別に言おうと思って気負ったものでもなんでもなかった。今感じているこの思いの全てを、壊れる前に形にしたい。ただそれだけの事だった。
「王子とこうしてるの、俺、好きです」
「うん、ボクもだよ」
これは何度となく繰り返された二人の儀式だった。赤崎が楽しいと言えば楽しいと返し、嬉しいと言えば嬉しいと返し。昨日は幸せだと口にすれば、そうだね、とジーノは目を細めた。赤崎はその度、たったその一言のおかげで体がとろけるようになっていた。なのに、何故か今日はそうならなかった。
「……」
まるで食べ物の好みを口にするかのようなジーノのあまりに軽い返事に、物足りなさを感じたのだ。今日の自分の言葉は確かにいつもと同じ言葉だけれど、それを実際に口にした途端、赤崎はわからなかった己の本音に気付いてしまった。
(あぁ、やっとわかった。そうなんだ。俺、王子の事……)
「ん?どうしたの?」
(でも、王子は……?)
当然心の中には戸惑いがあるばかりで、けれど、一見すると赤崎の視線は睨みつけるような剣呑なものになっていた。普通の人間なら尻込みするようなそれを平然と見返すジーノの目元は、その涼やかさの分だけ、ざわざわと赤崎の体の芯をざわめかせたのだった。
「ザッキー?」
赤崎は不意の違和感に息を詰めて、鋭い眼光は閉じゆく瞼で少しずつその姿を消していった。
「大丈夫?どうかした?」
心配げに覗きこむジーノの姿が見えなくなる頃、赤崎にはもうそれが今までとはまるで別人のようなものになっていた。今までの満ち足りた思いがそうであればある程に、心は命を失った冬の巻貝のような、寒々しい空虚さに苛まれた。ただ子供をあやすように甘やかされて調子に乗って、今はもう足元の梯子が消えた気がした。
――少しはマリッツィアも覚えたら?
空耳にビクリと体をこわばらせて、赤崎はジーノを払い除けた。突然の行動にジーノは驚き、払い除けられたまま、
「何?」
と言った。
「そうじゃない。王子、そうじゃ……俺は……」
「そうじゃない?」
そしてジーノは首を竦めてこう続ける。
「どうじゃない?」
赤崎はその表情を高慢だと思った。
(あぁ、やっぱりそうだ。王子は全部わかっててやってるんだ。わかっていて、王子は俺に、いつも、いつも、騙されてただけで……)
赤崎はギュッと己が拳を真っ白になるほど握りしめる。
(それでも王子は、俺に訊くんだ。どういう意味かを、何度も、俺に)
ジーノは見つめ、赤崎は睨み、その時間を赤崎は、先程のテレビの中の激烈よりも、更に激しい戦いに感じた。
(負けるかよ、見てろ)
薄く開いたその唇に、赤崎は押し付けるようにキスをした。自分の思いの激しさをぶつけて、チラリとでも動揺させれば価値だと思った。
「……こういう、意味です。王子」
遠くを見つめるような、いや寧ろ内面を抉るようなその瞳は、やはり赤崎を捉えたままだ。そうして、二人は無言のままに暫し互いを見つめ合う。指先一本動かすだけで全てが崩れ去ってしまうかのような緊迫を赤崎は感じ、一方ジーノはいつもの通り、ゆったりと余裕の表情だった。だから平気で言葉を発する。
「……だね」
音も息も本当に僅かで、ジーノの呟きはすぐ傍の赤崎のところまででさえ、言葉の語尾しか届かない。
「?」
思わず赤崎が眉を寄せて聞こえないとそぶりを見せれば、ジーノはスローモーションのように小首を傾げて、小さく小さくこう言った。
「そうだね」
提示された答えは、ただ現状を受け止めるだけの気軽な言葉で、やはり何て事はない反応に赤崎は思わず言葉の棘を剥きだしてしまう。
「どういう意味だよ!」
胸ぐらを掴んでも、抵抗もせず、何も言わず、ジーノはただただ身をまかすだけだった。それに腹が立って赤崎は力ずくでジーノをソファに押し倒す。けれど全部を壊すつもりでやった赤崎の行為も、ジーノを揺るがす事はなかった。
「どういう意味だよ、王子」
するとジーノは、フ、と抜ける吐息のように静かな笑いを一呼吸。そしてポツリとこう言った。
「そうじゃない、なんてキミが言うから……」
そうしてジーノは首元を押さえつけている赤崎の手を労わる様に指でなぞった。
「……じゃあ一体どうなんだろうなって、思ってしまったよ」
「で?」
「キミは本当に人の話全然聞いてないんだなぁって」
「は?」
「だから、」
もう一度ジーノはとてもささやかな笑みを浮かべ、ヒソヒソ話をするように赤崎に添えた手がグッと自らに引き寄せて、誰にも聞かれてはならない秘密の呪文のように、そうっと耳元で囁いた。
その短いイタリア語を、赤崎が必死で頭の中で翻訳を試みている間に、その呟きを追うようにやってきた熱い息と舌先が耳に触れた。
「ぅわ!」
面食らって目を白黒している赤崎を見つめるジーノの目は、手を振り払われた時のようにパチパチと瞬きを繰り返しており、けれど今度は先程と違って噴き出すように大笑いを始めてしまう。
「は?」
「全く、まだまだお勉強が足りないねぇ!キミは!」
「ちょ、やめろ!くすぐったッ……!駄目だって、俺それ駄目だって何度言えば……王子!」
脇腹を揉まれて身悶える赤崎以上に、ジーノは楽しげに笑い続けた。
「今なんつった?聞こえねぇんだよ!だから、待っ……」
子供のようにじゃれ合いながら、赤崎は必死になってジーノに問う。
「王子、もう、いい加減に……わッ!」
「フフ、Anch’ioって何度言わせれば気が済むの!って事!」
「だ、だから日本、息、苦し……王子、ど、どけって!」
「やーだね」
「Non ce la faccio piu`!(もう駄目だ)、マジ、勘弁してくれ……あッ!も、駄目だっつってん……おい!」
*
それはある日を境目にして。抵抗もせず、何も言わず、ジーノにただただ身をまかせながら、赤崎は幸せを反芻するばかりになっていった。そんな夜を過ごしながら、心の中でこう思う。
(Anch’io.Anch’io.……俺もだ、王子)
