飼い犬と飼い主 12 【1部完】
二人が二人してバラバラに過去の思い出を思い返してあーだのこーだの考えているだけの、ジーノとザッキーそれぞれのオフのお話。二人がどんな心境で新体制を迎えることになったのか。
ジーノのオフ~スパゲッティーニ
ボクがまだイタリアにいて大学に通っていた頃の事。
元気を取り戻しつつあったボクが再び日本に戻ると言った時、優しい母は珍しく口調を荒げて反対した。心配してくれていたのだと思う。でも、説得に父が協力してくれた。子離れしてあげなさいという父に母は「だって…でも…」と泣いていた。泣き虫で繊細で。でもイタリア女らしい情熱家で。お別れの時も笑っていたのにやっぱり涙。ボクの胸で泣き、父の胸で泣き。最後に真っ赤な瞳のまま美しい笑顔を浮かべてキスしてくれた。
明るく幸せに暮らすボクの姿を彼らに見せたくて、あれ以来ボクはずっと帰省を敬遠していた。行くとしてもバカンスの途中にほんの少しだけ顔見せする程度で。行く度に連れている女性が違うのに対して母はいつもボクを小声で窘めた。父も昔よくモテたけれどそんなに自堕落ではなかったわよ、と。
母にゾッコンだった父との昔のラブロマンス。堅物で実直。そんな父の語るアモーレはどんなイタリア男よりも情熱的だったわと彼女はうっとりと話す。そして父は父で沢山の恋の達人相手に勝てるわけもない勝負に挑み、諦めずに頑張り切った最後の最後にとうとう高嶺の花を手に入れたのだと自慢げに答えるのが常だった。
シャイな彼の日常は日本人らしい何を考えているのかわからない表情の少なさ。それでも結婚が決まった時には歓喜して体に羽が生えたみたいだったと言う時の彼の笑顔はとても情熱的で素晴らしいものだった。父は母の中のイタリアを愛し、母は父の中の日本を大いに愛していた。もう、何回聞いたかもわからない甘ったるい彼らのノロケ。まさにうんざりと言っていいほどの「大」恋愛結婚。ボクはその話を聞くのが好きだった。
* * *
父が母に早速電話をしてる。ああ、いたよ、なんて言っている。それを聞くボクはいなきゃよかった半分、いてよかった半分の微妙な心境。ま、しょうがない。これでよかったのだろう。だるいけど頑張ってボクも出国の支度をし始めなければならなかった。ノロノロ。モタモタ。ちっともヤル気が出ない。
あー、パスポート
ドキッとしたけどそういえば、と一つ思いつくことあり。夏のバカンス帰り、彼女とこの家に直行してここでセックスして…。服だけ洗濯するのに出して鞄ほったらかしで。そっか、そのまま練習に行ったっきりだった。ラッキーだった?アンラッキーだった?カーサに行く用事、最初からなかったのか。ほっとしてがっかりという感じ。
そういえばあの頃から色々もう駄目駄目だったな。なんて半年前の事を思い出す。昨日の事みたい、でも、うんと昔な気がする。暑い日が続いていて頭痛と眩暈の悪い兆候が増え始めていた。そうそう、あれから結局ウナギ懐石を食べず仕舞いで今日まで来てしまった。あのとき話題に出ていたウナギ懐石。連れてってあげるってザッキーに約束してたのに。そんなこと、すっかり忘れてた。ああ、こんなことを考えていたら、また心が勝手に流れていってしまう。止まらない、止められない。
年明け早々、初詣のついでに行こうと思ってたんだ
11月頃には予約して、もう12月か、無理だな
あ、でもあの有名なお寺さんはアスリートはお参りしに行っちゃ駄目だったんだっけ?
やっぱ初詣なら神社がいいよね、おみくじとかさ、いい感じだよね、日本って感じ
行ったことがあんまりない、いつもお休みはバカンスでさ
昔は家族で、今は彼女と、年末年始、日本に居たことなんてなかった
キミの話すキミの中の年越しがとてもうらやましくてボクは
年越しそばとか一回食べてみたかった
ザッキーが家で毎年必ず食べさせられるという
家族内でまずいって評判の、お母さん特製の
しかめっ面で伸びきったおそばをみんなで…フフ…変な年越し
天ぷらを沢山作るんだって言ってた
乗りきらないから当然別盛りで
それ、天ぷら蕎麦じゃないよ?
笑っちゃうねあの子はホント、面白いんだから…
ほら、止まらない。情けない気持ちでクローゼットから適当に服を取り出しカバンに投げ入れる。そうしている暇にも心は止めどもなく彼の方へ流れていってしまう。
ホント、ザッキーって変な子だったなぁ
どんな子と結婚するのかな?結婚前にまず告白とかデートだよね?
ちゃんとエスコート出来るんだかどうだか
すっごく不器用なところがあるからハラハラするよ、フフフ、とてもみていられない
怖い顔して好きだって言っても、女の子ってみんな逃げちゃうよ?
彼の本当の恋、見てみたかった
きっとあの子の恋はとてもいい笑顔を伴って
あの子を好きになる女の子はきっと彼によく似合うとてもいい子だろうね?
サッカーと同じくらい魅力的な女の子
きっとその子も笑顔がかわいいね
見てみたかったな、幸せな二人が並んでいる光景
彼女が出来たらボクのところに連れておいでと言った時、
真っ赤な顔して怒ってたっけ
安心しなよ、キミのものを奪いたがるほどさもしくないよ?と笑ったら、
あんたにその気があろうがなかろうが関係ない話だなんて怒鳴ってて
あの頃からあの子はボクに恋をしていると自分を錯覚していて
わざとそれをからかうのも面白かった
笑ってばっかりいた、ただただ笑ってた
あの頃、幸せだったな。なのにどうしてボクは何故あの日キミを抱いてしまったんだろう?どうしてあの幸せな日々を自分でぶち壊すような真似を?彼と一緒に笑っている時間。ボクにとって本当に本当に大切なものになりつつあったのに。人と過ごす時間が退屈しのぎ以外のものに変化し始めていたというのに。なのに、ちっともその時間とそれを作り出す彼を大事に出来なかった。あの頃の体感がやってくる度にその喪失に痛みが走る。ボクのどこか。この感覚は本当にとても苦手。
この痛みはおそらく罰だ。きっと。わかっていながら馬鹿なことをしでかしたボクの罪。彼の事となるとボクはどうも調子が狂ってしまうから。思い返せば楽しい分だけうまくいかないことだらけで、いつもいつも自分のしでかすことに困ってばかりだった。眉を寄せ少し皮肉も感じさせるキュートな彼の笑顔が気に入っていた。すごく素直で思いやりのある子なのにびっくりするほど口下手で喧嘩腰で。でも完全にリラックスしきった時、ふと子どもみたいな満面の笑みをこぼす。きっとあれを手に入れられる人間はそう多くはないはずで。だから尚更感慨深くて。
あの笑顔がよかったのだ。なのにボクが彼を抱く毎に彼の表情には暗い影が宿ってしまった。宿らせたのは勿論このボク自身。あれのすべてを欲しながら、強引に貪ってしまったばっかりに欲しかった本質を壊していくことになった。今更いいか、そんなこと。もうやめよう、こんなことを考えるのは。でも勝手に思い出してしまう、いろんなことを。あぁ、ホントもう疲れた。クタクタだ。身も、心も。どうしようもなく。
忘れてしまいたい
タッツのことも、ザッキーのことも、なかったことにしてしまいたい
なにもかも全部、自分の中から削り取ってなくしてしまいたい
そう、日本のすべてを、サッカーのすべてを、ボクのすべてを、
いっそ手放してしまいたい
手放せないと思うものほど、抱えているのがつらい
苦しくて何かが喉につかえているみたいに息が詰まってしまっている
* * *
父が母の電話に出ろという。ボクの目の前に差し出された父の携帯。話すのが少ししんどい。でもこれ以上母を心配させるわけにはいかない。明るく、とは無理なので。陰気になり過ぎない程度に落ち着いた話ぶりを努力する。会話をしてる時も思考はふらふらどこか明後日の方向を右往左往している。不謹慎。でもちゃんと集中できない。ゴメンね。わざとではないのだけれど。
もうすっかりあの頃のように、ボクは言葉を失い始めている。あれこれ話そうとはしているのに、口からそれを吐き出せているのはその1割にも満たない。繊細で情の厚い母は端的にこう言った。
「診察というより挨拶のつもりで一度主治医のところにだけはなるべく行って来なさい、調子が良くても悪くてもね?」
ボクの名前で勝手に病院の予約をしていたらしい。なんて強引な彼女の先回り。そっか、11月にボクが電話を入れた段階ですでに予約に走ってたんだね。じゃないとあれほど多忙な病院の予約日をボクの帰省期間にぶつけられるわけがない。あなたの予感は的中です。そうだよ?「行こうと思ったけど予約できなくて」なんて、医者に会わなくて済む理由をちゃんとボクは用意していたんだ。ちくしょう、あなたは何もかもお見通し。
だって、聞きたくない。聞かねばならないあの一言をボクは本当に聞きたくなくて。ボクのやること、考えることは、いつもスパゲッティーニのように絡まり、筋が通っていない事ばかり。だからボクはシンプルなものが好きだ。ボクはシンプルがとてもとても下手だから。
行って欲しいだろうね?不調丸出しのボクの様子を感じて。でも彼女は言わない。彼女もまたスパゲッティーニの息子を持つ母にふさわしい女性で。かわりにこう言う。手土産ひとつ持って挨拶だけして帰ってくればいいのよ、と。こんなに悪くなってるなんて思ってなかったんだろうからね。ボクも電話を掛けた時はあなたと同じように少しは希望を持っていたよ。自分の立て直しについてね。
本当に感謝している
ありがとう、いつも温かくて優しいボクの母、ボクの理解者
これでもうボクは逃げられない
彼女はボクの魂が良くも悪くもジャッポネーゼでイタリアーノだという。ボクは長い事彼女のことを感受性豊かで繊細過ぎるひよわな女だと思っていた。大人になるにつれわかる母の強さとたくましさ、そしてしたたかさ。ボクを深く理解してしまうあなたの愛は時に手厳しい。
父と正反対。彼は手厳しいようでいて、反面とてもセンシティブまでに優しい男。実は独りぼっちが苦手な甘えっ子。そしてホントはとてもとても泣き虫で。彼はいつも涙を出さないでこっそりと泣く。誰にもバレてないと思ってる。とんでもない。ボクにも母にも丸見えさ、そんなもの。そんな彼の涙が本当に目から零れ落ちてしまうのはボロボロな状態の時。ゴメンね?ボクは昔そんな悲痛な涙を流させてしまった。
全く違って、それでいて寧ろそっくりなようなあなた方夫婦
いつも互いを埋めあい抱き合って生きてる、素敵な二人
あなた方の愛の形をこうして感じていると、やっぱり不思議に思い出される
強引なのに繊細で、とても傷つきやすいのに強靭な
そんな、ボクの大切なあの子のこと
離れてみて、あたらめて実感する、彼の稀有なあの魅力
ボクは彼を埋められなかったけれど、彼はいつもボクを抱き留めてくれていた
一緒に笑っていられる間だけ、ボクは少しまともでいられた気がする
おそらく、本当に奇跡のような時間だったのだろう
自分が自覚する以上に
用意する持ち物。本当はなんにもない。ボクには必要な物なんてない。財布にパスポート。あとは頼まれたお土産物。それもほんのちょっとしたもの。なにもかも全部ここに置いて行こう。日本を思い出すようなすべてをここに。カーサの事だけが気がかり。あそこのことだけは自分でと思ったけれど。駄目だな、モッチー、引き受けてくれるだろうか。断られたらその時考えよう。ほったらかしてほとぼりが冷めた頃に。そうだよ、もう何十年も先になったって、こっそりと一人で片付けていってもいい。
なにもかもきっと時間が解決してくれる。10年で解決できなかった問題も、20年先、30年先ならどうなってるかわからないさ。人生ってそんなもんだって本に書いてあった。時間ってホントは万能薬なんだってね。効き目あるらしいよ?本来、そうなんだって。いくらボクが変わり者だからって、この万能薬の効果については例外扱いされやしないとは思うんだよね。というか、思いたい。すがらないではいられないんだ。そんなものでも。今のボクには、自分を守れるものが何もないから。
