鎖に繋がれて 1
2007年1月いよいよ達海監督就任。閉塞感満載だったETUに新しい風が吹き込み、それと共にジノザキ二人の関係性にも大きな変化が訪れます。公私共に大混乱!みたいな。そんな感じ。話の中で心理学系専門用語やイタリア語がちらつきますが勿論ナンチャッテで出鱈目です。王子、赤崎、椿、達海(気配だけ)など。
空と二人の素敵な場所
今日は練習中にみぞれ交じりの雨が降った。こういう日はシャワールームに浴槽があることがとても嬉しい。
王子がいないので、なんとなく彼がいつも使っているジャグジーの場所に腰を下ろしてみる。周りのみんながギョッとしてる。でも本人がさぼりで不在なんだから別にかまやしないことだろ?と思った。馬鹿馬鹿しい不必要な気遣いだ。だからなんか文句あるのかよと言わんばかりに睨み返してやった。
この場所に座るのは初めてだ。なんだろう、シャワールームが広く見える気がする。俺は今年に入ってから、少しずつこういう遊びにも似た確認をするようになっていた。ストーカーチックで自分でも気持ちが悪い気がしないでもないけれど。
王子は不思議だ。彼が極自然に居がちな場所というのはなぜかほんのり心地良さを感じる。ここでいうならこのジャグジーの場所。ここから左に見えるシャワーの並びと備え付けのシャンプーボトルの色。出入り口のドアの配置。ほわほわとぼやける蛍光灯の穏やかな明かり。なにもかもがしっとりとした調和を持っている。色彩からパースまであつらえたみたいにとてもいい感じ。一個隣にずれただけでなんだか全然違って見える。一通り座って見比べてみたけど、やっぱりこの場所が一番丁度いい感じなんだ。
* * *
練習の時に王子がよく給水しにいくボトル置き場も同じ。まるで彼が眺める為にそうしたかのようなバランス。ピッチと空とゴール。その周りを囲む柵の配置と距離感。晴れた日の立ち位置。雨の日の立ち位置。彼本人がどこまで意識的にやってるのかもわからない。そんなちょっとした彼の美意識。意味のないように見える彼の行動。一つ一つに見えてくる彼の中にだけある意味。彼の嗜好。よく観察すれば、こうしてあちこちに落ちていたりする。
やきそばパンを食べるためだけに作ってしまったちょっとした憩いのスペースも同じ。ベランダから差し込む夕日の光に目が留まり、確かに綺麗だと褒めたら、
「でしょう?」
と彼はそれはもうとてもとても嬉しそうに笑った。
「俺は夜景よりこの夕日の方が好きかもしんねぇッス。これ見ちゃったら速攻で引っ越ししてきたくなるのもわかるなぁ」
俺が王子の家の夕焼け空を褒めた数日後。季節は梅雨。夕日の高入りが“明日も雨だよ”と告げながら、空一面を真っ赤に美しく染めた日のことだった。俺が彼の家に着く早々、とにかくこっちに来てよと王子は俺の手を引いた。ベランダにはシンプルながら美しいフォルムのベンチと小さなテーブルが置かれていた。聞けばやきそばパンを食べる特別な場所なんだそうだ。
彼はああして席を作ることで、彼のためだけに存在していた景色を、俺達二人の景色にしてくれたのだと思う。つまりは彼の世界の中に、俺達二人が存在する空間が出来たということだ。なによりもほら、彼は椅子を二つ用意するでなくベンチを用意した。二人掛けの並んで座るためのベンチなのが、とても良かった。俺にとっては浮世離れしていると言ってもいいなんだか落ち着かない彼との日々が、急に日常に近づいた瞬間だった。目の前に、椅子。椅子をとても愛する王子の用意した、王子と俺が並んで座るための二人掛けのベンチ。なんにも言葉がないけれど、彼の目が、俺を見ている。ほら、ここは特別な場所なんだ、喜んでくれるかい?と、言っていた。
ちょっとした俺の一言で、彼がこんな行動をしてしまうだなんて思いもしなくて、くすぐったくて。俺の気持ち。王子を見上げるように仰ぐ出なく、同じ高さで、同じものをと。だから、ベンチ。王子はなんでもお見通し。肩を並べる、そんな俺の夢を疑似的に叶えようとしてくれていることを感じた。それが嬉しくて嬉しくて、そして少しだけ恥ずかしかった。
「ね、ほら、早く座ってみて?そっちのほうが空が綺麗に見えるし、きっとキミも気に入ると思うんだ」
まるで小さい子どもみたいな得意げな顔。目線が伝えていた彼の心が、今言葉になって零れ落ちはじめる。王子はこっちこっちと俺の手を引き右側の席に座らせた。
「こっちが綺麗なら王子がここに座れば…そっちだと角度が…」
一旦背中を押されて座りながらも、遠慮がちに席を交代しようとした俺に向かって王子は言った。
「いいんだよ別に。ボクはこっちからキミ込みで見る空がいい」
「どっちにオレが座ろうが顔なんて見えるッショ?だから王子、どうせなら席変わりましょうよ」
王子が立ち上がる俺の肩を押さえて窘める様な顔をするので俺は困惑する。
「いいから、楽しもう?」
「いや、だから王子が」
「せっかくの夕日が沈んでしまうよ?ザッキー…ああ、今少しボクの言い方悪かった…ね、そう…つまり…」
そう言いながら、俺の返事を待つでなく少しぼんやりとし始めた。いつもさりげなく相手を誘導して納得させてしまう王子が言葉をとめる。楽しいはずの時間が微妙な空気に変わりだす。
「遠慮して譲るとかボクがそういうタイプじゃないことはわかるよね?…ボクがこっちの方がいいっていうのは…ん~…」
あの頃の王子はこういうことが時々あった。少し立ち止まり言葉を探すような態度をとる。動力の切れかけたゼンマイ仕掛けのおもちゃのように彼の中の時間の流れが突然ゆっくりになってしまう。
「…ほら、月の方がまだボクには…」
「?」
「つまり…美しすぎる夕日は直視すると強い感傷を呼ぶからね…仕方がないから夜にやきそばパンを食べてたくらいでさ…」
客観的には彼特有のキザでふざけたジョークに見えることだろう。でもこれは違う。同じようでいて全く異質のドキリとしてしまう彼の空気感。わかってる。これは演出でも悪ふざけでもない、はらりとこぼれ落ちてしまった彼の素に近い部分にある言葉だ。そんな言葉を口にする時の彼の瞳は真っ黒に潤んで虚ろに光っており、その著しく調和の乱れた危うい表情は毎回俺の心を不安にさせた。日頃の威厳すら漂う高圧的な彼に比べて、誰のことも見つめようとはしないまま自身を語る彼は脆く華奢に出来ていた。吊り橋の上にいるように足元が揺らいでとても怖かった。
「さっぱりだ、わかんねぇ。またキザポエムモードに入っちまったこの人」
こんな時、俺は必ずやることがある。今起きた自分の動揺を誤魔化すように呆れた様な溜息を一つ。そしてなんとなく皮肉な顔を作って笑ってみせる。すると彼は我に返ったように少し驚いた顔をして二、三度、目をパチパチ。そしてふっと少し困ったような笑顔を浮かべることが多い。これは、彼の中の調和がすっと元に戻って安定していく姿だ。
「フフ、やだなぁザッキー。女の子はこういうのみんな好きだよ?」
もう大丈夫。視線があう。王子は俺を見ている。この顔を毎回見る度、やっぱこれが正解なんだな、と思う。彼の不安定な内面は二人きりでこの家の中で寛いでいる時にだけ、ほんの稀に彼の意図なく表出するようになっていて、俺はああいった時の彼の言葉は拾うべきではないことを学習した。たまに拾った時もあったけれど、まるで神経が逆撫でされたかのように態度を硬化することが常だったから。そうなるとしばらく彼は俺を呼ばなくなってしまう。彼が落としたからといって、すべてを拾うべきではないのだ。見て見ぬふりを決め込むのが正解。でもちらつかせておきながら拾うなという王子の態度。難しい。王子の扱い。
「ハッ!俺は女じゃねーしうすら寒ぃだけだから!キモ!ウザ!寒!」
「えー?失礼だなぁ~、全くザッキーときたら」
「さっぱりわかんねぇよ、素直にこっち側座りゃいいだけの話なのに。ま、いいけど」
王子は日本語が苦手だとは言うけれど、かなり言語能力が高い。相手にあわせて高尚にも言えるし噛み砕いて説明することも可能だ。そして無駄口は叩かない。言葉にはすべて研ぎ澄まされた意味がある。それが基本。でも、この家の中にいる王子は少し違っていて。もう少し言葉を気楽に扱う。わかりにくい言葉遣い、イタリア語。何気なくこぼれ落ちる彼の言葉は俺に向けているようでいてそうでなく、一人ママゴト遊びをする子どものようにしゃべること自体、声という音声そのものを楽しんでいるだけのように見えた。
「フフ、ようするに一等席に座るよりも、キミがそうやって少しさえぎるくらいがボクには丁度いいって話だよ」
もうすっかりETUの貴公子らしい彼の顔に戻った姿。とても安定している。そしてすかさず楽しげに俺をからかいはじめるそれ。大丈夫。俺はもう緊張しなくていいという合図。
「…それって」
「ん?」
「俺が美しすぎる風景邪魔するのに丁度いい存在だって意味ッスか?」
「え~?なにそれ!もう、本当に面白いこと言う子だねぇハハハ!」
王子が俺を見て楽しそうに笑う。ホッとして俺もまた笑う。そして気持ちがすっかり楽になった俺はこんなことを続ける。
「…あのね、笑うとこじゃねぇんだけど?あんたって時々ホッントに失礼ッスよ?」
「だって、フフフ」
「そういうことッショ?今の明らかに俺の顔、ネタ扱いした発言じゃねぇ?」
詩を読むかのように意味深な彼の言葉はあまりにもリアリティからかけ離れている。一体誰が信じるものか。単なる夕日すら刺激が強すぎるだとか、こんな馬鹿げた感受性がこの世の中に存在しているだなんて。王子のこの姿を知る前なら、俺だって。一般人には理解出来ない彼の信じられない繊細さ。キザだの、クサいだの、ウザイだの。そんな言葉で笑い飛ばせば、彼はつっこみありがとうとでも言わんばかりに満足気な笑顔を浮かべる。触れられたくない過敏を無意識に晒してしまう王子と、彼を壊したくないと身を躱す俺。そして、さりげなさを装いながら蓋を閉める王子。これがあの頃の俺達が新しく手に入れた二人だけの日常の世界だった。
「ふん、無理しなくていいッスよ。プレイも顔もつまんないより面白いって言われるにこしたことはねーし。」
「…なんでそういう話になるの?フフフ、ホントつくづく…かわいいねぇ」
「だから、かわいいとか言うなって!やっぱ馬鹿にしてんじゃねーかよ!」
「馬鹿になんか…あ!ほら、やっぱりだ。キミの後ろに見える茜空、すごくキレイ。キミの頬を染めてるその色ととてもよく似てて」
「なッ!!」
「ほらほら、耳まで赤くなっちゃって、本当に…とても綺麗な色してる」
「うるせぇ!」
話をしているうちに彼の表情はこうやっていつもクルクルといろんなものに変化していく。今はもうすっかりいたずらっ子のような子供っぽい笑顔に逆戻り。茶目っ気たっぷりなその仕草。嬉しそうに、楽しそうに。刻一刻と変わり続ける王子の姿。ハラハラ、ドキドキ。いつまで眺めていても、全く見飽きることがない。
「えーっと…そうそう、まるで赤ちゃんみたいッ!そっか、ザッキーって赤ちゃんだったんだね?ハハハ」
「黙れよッ!」
「赤ちゃん!ハハハ、ヨシヨシ、いい子だねぇ~」
「なんだよそれッ!調子に乗るなッ!」
あの頃の彼はそうやっていろんな表情を浮かべながら、最後には犬をかわいがるように俺の頭を撫でるのが癖だった。その髪に触れる彼の指の感触があまりにも気持ちがよくて、怒りながらも俺は少しでも長くそれを味わっていたくて。この瞬間を堪能しながらじっと大人しく王子の手を受け入れるのが常だった。そんな中、王子はいつもいつもいろんな悪ふざけの言葉を口にしつつ、俺をからかいながらにこやかに笑っていた。本当によく笑っていたのだ。あの頃の王子。
立てば眼下に広がるパノラマ。座れば空には夕日や月夜や青空や。隣にはいつも優しく笑う王子の姿。
「……」
「はぁ?なんて?」
「… Il bel luogo di solamente due persone って言ったんだよザッキー」
「んだよまた?イタリア語わかんねぇっつってんのに…どうせどういう意味だって聞き直しても説明する気サラサラないんでしょ?」
「フフフ…そんなんじゃ…」
「そんなんじゃ?」
「あるのかな?ハハハ」
「ったく」
日本語訳を続けて言わないイタリア語。ぼんやり王子のするもう一つの癖。聞き返しても何も言っていないよ?と答えることが多かった彼が、こうして復唱してくれるだけでも進歩したとは言えるのだけれど、やっぱりどちらにせよ意味はわからなかった。
それでも弾むような歌うような言葉のリズムが、王子の姿にとてもよく似合っていた。俺は鳥肌が立つほどキザでつけったらしいと揶揄しながら、その実イタリア語で話す彼と過ごす優しい時間がとてもとても好きだったりした。王子はそのことをよく理解してくれていて、少しずつ無意識にイタリア語が出ることを気にしなくなってきていた。かつてイタリア語が出ないように気を付けているのだと語っていた彼が俺に心を許してくれているように思えて嬉しく感じた。
「この場所の呼び名をどうしようかなーって考えてたんだ。ちょっと長いね。Un Bel Post … Un Bel Luogo … ん~ Bellissimo Luogo って感じの方がいいかなぁ…ちょっと大げさかなぁ…」
珍しく王子が説明してくれている。けれど俺が説明して欲しかったのはイタリア語を呟いた理由でなく内容で。わかってる癖に翻訳しないのは相手の理解を必要としていないせい。イタリア語で話す彼は吐息がかかるほど近くに感じるのに、日本語に訳さない彼は途方もないくらい遠くにいるように感じてしまう。相変わらず俺はそんな王子に振り回されてばかりだ。
「“ヤキソバ”でいいッスよ、やきそばの“ば”は場所の“場”って感じで」
「えー?やだよそんな」
たわいない会話の中、夕日が沈んで少しずつ空が暗くなっていく。
「それにさ、仮に“やきそ場”にするとしても、それじゃパンはどこ行ったの?って話だよ」
「そこなのかよ」
赤い空と黒い空の間のグラデーションがとても綺麗で、笑う王子もまた綺麗だった。
