そよ風ロマンス第5章(そよ風ロマンス最終章)
【27605文字】
実に2年半くらい前のシリーズの終章。今回は改ページごとに視点が交互です。
中断して気にはなっていたんですけど、書きかけに掃除と追加などなど。終盤一瞬ジーノが下品。似たような話ばかり書いてますけど、今回は番犬がこじらせです。
あの日の王子のその言葉は、俺への問いの形をしていた。
「愁傷に頭のひとつでも下げろと言うのかい?それで君の気が済むと?」
けれど返事を求めていないのは明白であった。そういうことではないのだろう?という意を含んだ薄ら笑いで、容易く俺の心を抉った。会う度加速を帯びる王子の変化。なのに全てが一貫していて、毎回俺は思うのだ。
「マジで嫌いです。俺、あんたのそういうところ」
言えずに過ごした一言だった。王子はやはり微笑んで、とても不快な現実ながらも俺は回避しきれなかった。
「やっぱり君は利口な犬だ」
幸せそうに、満足そうに。あまりに王子らし過ぎて、最後までズタズタにしてくれて、痛みで微かに正気が戻り、釣られて俺も苦笑した。こんな形でしか関わり合えない。それが俺と王子なのだと、握手でも交わした感覚だった。
*
昨日。キャンセルで運よく直行便に空きが出たので、予定を少し繰り上げて帰国した。急いた心を宥めつつ、素知らぬ顔で古巣へ向かう。今日は午後練と聞いていたので、運が良ければ会えると思った。そしてフロントの冷たい一言に、俺は現実を痛感するのだ。
「悪いな、ほんの少し前にみんな帰った」
残念だったな、などと言われて眉をしかめて鼻で笑った。
「何言ってんスか、別に俺は」
「またそういう。寂しいくせに」
無理矢理平静を繕えば、頭をぐしゃりと撫でられた。いい年をした大人の俺をいつまでもここはガキ扱いで、向こうの生活が長くなるほど、邪魔くさいものが不可欠になる。渇いた心に染み込んで、俺は俺に戻ってしまう。
「ま、どっちにせよジーノは居なかったがな」
「は?またサボりッスか?」
思わず責める口調になってしまった。
「サボりっていうか」
「……大丈夫なんスか?あの人今じゃ随分古株でしょう?そんなじゃ若手にも示しがつかねぇだろうに」
今ではあの国の言葉の理解もかなり進んでいたが、やはり母語だと饒舌になる。意識してそうなるわけでもないというのに、こと余計な言葉ほど流れ出てくる。
「ま、あの王子が万が一そんなの考えるなら逆に『正気か?』って驚きますけどね」
ささくれだっていく心。もうここでしか出来ない甘え。
「そう悪く言ってやるな、あいつもこのところ」
「何スか」
「……いや。なんでもない」
そして昔に戻ったこの感覚が、錯覚なのも時々感じる。つまり、ここは俺の『古巣』であって、『家(ホーム)』ではないということだ。部外者、外様、隔たりの膜。昔はなかった溝と壁は、自らの選択で生み出した。不平や不満は到底言えない。それでも納得はしていても、やはり寂しいものは仕方がない。
「何スか。今なんか言いかけたでしょう?あの人のああいう出鱈目なとこ、是正できない理由でも?」
なんだか自分が自分みたいな、不思議な感覚が体を包む。それでもすぐさま過ぎ去っていき、実感は俺から離れてしまった。
*
チームは実に生き物であり、不変なものなどありはしない。よく知っているはずなのに事実を受け止め損なうこともある。
(王子、さっきの話マジなのかな)
今日は重い雨の空。休みはよくあることらしかった。
(頭を下げて許してもらう?口先でなく、真面目な意味で?そんな、馬鹿げた……嘘だろ?王子)
ふらふらと無為に散策していると、あちこちの光景に色々な思い出が浮かんで消えた。変わらないと懐かしいところもある反面、新しくなっている設備もちらほらあって、今のチームの勢いと財政的な潤いを感じる。
(面白くないなんて思うなよ。こういう変化はいいことなんだ)
セレクションを受けた日のこと。輝いていた7番のこと。活気がどんどん濁り淀んで、時々殺伐、喧々諤々、去る者、来る者、バラバラで、出鱈目にみんなもがき苦しんでいた。半生かけて俺が見てきた、ここの姿、歴史であった。
(そうだよ、変な感情だ。あの人が帰国してからがらりと変わって、俺のその後の選択も、チームの今の隆盛も、全部正しい、悔いもない。あのままここに残っていたら、一体俺はどうなっていた?)
苦くて甘い短い期間。忘れたくて忘れてしまって、忘れきれない今がある。
「はっ、馬鹿馬鹿しい」
映画の肝心のラストシーンを寝て見逃したような感覚。俺は俺の人生を選んで生きて、なのに脇役のように思えた。俺の奥底で揺らめいている、この感覚が好きで嫌いで、ここの空気を吸いに来ている。
(ああ、見えない空気ごと懐かしい……)
その匂いにも切なさがある。ぞくりと背中に何かが走って、ふるふると強く頭を振った。全身溶け込みひしめいていて、なのに水と油の撹拌に似て、俺だけ一緒になりきれない。王子と俺との日々に似ていた。俺の全てを掌握しながら、お前は全く別物なのだと、爪で弾ける塵の如く、些末な俺を切り離す。
「王子……」
無意識にその名を呟いていて、軽い眩暈で壁に凭れた。その人はどこにいるのだろう。俺とは違う別の世界で。
*
そうこうしていると、向こうから一人の選手がやってきた。
(あれは……)
最近入ってきたにもかかわらず、即座にチームにフィットした、いわゆる新参者の犬だった。向こうから挨拶をされたので、彼の名を呼び応対をした。何やら異様にびっくりされて、こっちが逆に驚いた。慌てふためき興奮されて、俺は苦笑するしかなかった。こんな俺でも憧れらしく名前を俺に知られているとは思いもよらぬと動揺している。服で手汗を何度か拭い、握手を求めて手を差し出す姿に、やっぱり俺は苦笑しつつも、
「あ、ああ。いいよ」
と応じてやった。昔、何度となく、こんな光景を想像していた。尊敬されて、目標とされ、俺はそれに恥じない自分となるべく更なる高みへ行くのだと。実際そんな場面を迎えて俺は首を傾げて思う。違和感だけが広がっている。大層な選手になりたくて、周りの評価もそこそこで、多分それなりにその日はきていて、なのに全く実感がない。そういうものなのかもしれない。成し遂げるとはようするに、霞のようなものなのだ。
最近の戦術の話になって、自然に王子の話になった。新しい犬から光が溢れ出る。未来を夢見る顔だった。確かにこいつはここに移籍後大化けしたと評価も上々、充実を感じる毎日だろう。得点力も本物だ。
「つか、その……少しは悩みとかねぇの?苦労とか?」
「?」
「いや、王子とか。ほら、あの人色々めんどくせぇし」
そんなことは、と零れる笑顔に嘘偽りは微塵もなかった。意外性も感じなかった。ちょっと聞いてみただけだった。
(やっぱ、そうなんだ?)
俺はここの試合の動画を暇さえあれば何度も見ていた。耳打ち、合図、視線、微笑み、別人のような王子の姿と、そしてチームの勢いを。
(くそ……だからやめろって。こんなつまらねぇことでイライラと)
チームは順風満帆だった。理由を俺は見つけてしまい、その度、胸がギュッとした。そして今もギュッとしている。予想が現実だったから。
「は?今、なんて?」
その後の他愛無い話の中で、俺は驚愕の事実を耳にした。フロントから聞き出せたものとは違う、思いがけない話であった。
(思いがけない?違う……多分、なんとなく感じてた……でなきゃ、あんな……)
新しい犬の姿がとっくに消えたその後も、ぼんやりそのまま佇んでいた。別の世界に彼は居る。重々わかっていたはずだった。
*
そして今日、俺は再びここを訪れた。周りにそれと気付かれぬよう必死になって王子を探した。辻褄が合うあの噂、果たしてあれは真実だろうか。
(冷静に……こっちの下世話に気付かれたなら、絶対煙に巻かれてしまう)
心には昨日の動揺が色濃く残っていたので、努めて深い息をした。
(あ、いた。今日は王子、ちゃんと来たのか)
遠くで王子はチームメイトと、さも楽し気に談笑していた。試合の動画でも見かける光景。穏やか、親密、打ち解けあって、己の輝きそのままにチームに溶けてそこに居た。
(全然あんなの王子じゃねぇよ)
けれどいつもと変わらないのは、ちゃんと俺を無視することだ。広い視野のあの人が、気配を覚らぬはずもない。それでも今日も巧妙に、俺を視線が器用に避けた。
(ふ、徹底してんなぁ。こういうとこだけ変わらねぇ)
かつて、気付かれるのを待った日もあったが、そのまま無視されるだけだった。移籍後ずっとそんな感じで、だからいつしか否応もなく避けられていると理解した。
キザで、極めて愛想がよく、周りの羨望をも上回る、確固たる自負を持つ男。そんな人に心を盗られ、戻され、今も壊れたままだ。
(王子……)
無視はいつでも痛かった。悲しく絶望そのものだった。それでも俺はそれで良かった。全ての才を手に入れながらも人としては大きな欠落のある魔物、王子のままで居て欲しかった。孤独を自覚することもなく、知らずそれに蝕まれ、贄を欲し踏みにじり、なおも渇く気の毒な、そういう生き物であることを、王子の不幸を俺は願った。
(あんたは今どっちだ?王子。俺は未だに贄なのか?)
人としての情動を感じさせる、穏やかで瑞々しい微笑み。あれは選ばれし者のみ得られるはずの、稀有な宝石ではなかったろうか?俺が去ったこの場所で、ヒト化は進んでいったのか。高みから輝くだけだったのが、あまりに自然に地に降りて、木漏れ日の複雑、風さえ温もり、その姿は恵みそのものだった。人当たりよく、難解でなく、仕草は変わらぬ気品を保ち、他者に向き合い心を交わす。安寧。信頼。絆と連帯。ゆったりと余裕のある調和の世界。
(ああ、ここはもう紛れもなく、王子の統べるチームになっ……)
理論に基づく分析と判断、それに呼応出来る身体能力、すべては些細な日常から始まっている。穴を糸で繕うように、それぞれの個性と歪と才を王子が軽やかに紡いで広げる。
(王子の、天才のもたらす理想の一例……)
俺は常々王子をして、この手の理解を深めてしまう。震える感動、そして切望。これが恋と失恋と言うならば、それならどれだけマシかと思う。
(それならおそらく耐えられた。多分)
これがもし恋だと言うならば、たかがドーパミンの過剰分泌、現象は数年で終わりを告げる。
(でも違う。これは持たざる者特有の……王子は呪いの象徴だ。俺は一生こうなのか?)
天才、スター、至宝、レジェンド。世界には沢山の綺羅星がいて、そして王子は俺にとって、触れる位置にいた星だった。未熟で脆い思春期に、王子は俺に洗礼をした。あの日の惜敗の雨の試合、初めて見た王子の煌めき。俺は何かをこの身で知った。プレイひとつに心奪われ、俺もあそこに立つのだと、思いがびっしり根を張った。やっとこ生え抜きとして入団を果たし、それでも待っていたのはギリギリプロの惨めな日々で。焦りのもたらす陰りであったか、そもそもの俺の弱さであったか、王子がたかが凡なる人だと、考えるようになってしまった。自分勝手で不真面目で、いつもチャラチャラ、無責任、どういう人だと肩を落とした。
(そう、そうして無自覚に、俺は復讐したかったんだ。王子を俺で穢したかった。だからあんなに執拗に王子を使って吐き出した……)
汚れた心で近づいて、そんな自分に気付かずに、王子は俺をぶちのめし、壊れた俺を手放した。王子に人間性などなくて、俺も人として醜くて、だから今日の有り様なのだ。海外で活躍?代表選出?俺は捨てられたゴミに過ぎない。
(駄目だ、またわけがわからなくなる……)
離れている時、彼の何かが見える気がして、でもこうして無視をされた瞬間、捨てられたゴミの感覚により全てがぐちゃぐちゃになってしまう。見つけたみたいな何かが消え去り、思う全てがゴミに感じる。
(深呼吸……普通に、さりげなく……)
だからいつでも第一声は、俺渾身の勇気であった。体面上、元チームメイトを完全には無視しきれない。ただその一点を拠り所に、俺は必死に寄り縋る。
「どうも、相変わらず元気そうで」
無理矢理作る嘘の顔。強張る笑顔、震える足先。それに気付かぬ人ではない。流される恐怖に竦む俺を前にして、ようやく王子は許容する。
「あれぇ?ザッキー、来てたのかい?」
歪な茶番であるのは実に確かだ。無視の動機、覆す意味、王子の本意は全く見えない。陽炎のようにあやふやで、世界よりも遥かに残酷。
「昨日は朝方酷い雨で。フライトは今日?運、いいね」
「運、いいね、じゃねぇッスよ。つか王子また昨日サボってたでしょ」
震えはまだ止まない。
「えー?いやだなぁ、なんでそれを?」
王子は俺を弄ぶ。無視をしてから絡みつく、ねっとりとした不快感。みんなへの笑みとは全く違う、取り澄ました顔、偽善の優しさ。
「だって、俺ここに来ましたもん。雨降ってたのも知ってます」
俺はこの毒のどうしようもなさを知っていた。苦しみ、甘み、そして憎しみ、堪え切れないその魅力。
(王子、一体何なんですか?……駄目だ、またわからなくなっていく)
「帰国したの、昨日なの?」
「そうッスよ。直行便取れたんで」
「えー、それならそうと教えてくれたら」
言ったらどうだというのだろうか?と考えかけて、意味がないことにもすぐに気付いて。
(相変わらずだ。こういう態度)
空虚な会話を俺が振り、王子が無意味に受け答え。これを数分するためだけに、寸暇を惜しんでここに来ていた。怖気の走る社交辞令、さも仲良しな旧友かのよう。微笑ましくさえ見えるだろう。裏で激しく火花が散って、その度俺は思うのだ。王子の中には今現在も、あの化け物がいるのだと。
(王子、すっごく嫌でしょう?)
俺の悪趣味は大したもので、漂う気がする困惑に不思議な安堵が広がっていく。これは俺らの我慢比べで、負けるのはいつも俺だった。だって錯覚してしまう。それがとても恐ろしく、最後は俺から話を畳む。けれど今日は負けたくなかった。俺は俺のこの数年を終わらせなければならないからだ。開いたままの地獄の窯には蓋をすればいいことなので。
「最近俄然ヤル気のようで?なんか心境の変化でも?」
「ふふ、嫌だな。からかう気?」
初見で感じた印象通り異質な才は本物だった。でも彼のどうしようもない欠点は上を目指す意欲がないこと。遊び半分、退屈しのぎ、それにほとんど不満もなくて、時々輝きすぐに休んで、だらだら無駄に、腹が立つほど。心にアクセスしようにも、下から上は届かない。ヒトに擬態し、親しみの嘘、興味がないのに下を見て、暇つぶし程度に俺にかまって。
(からかってるのはそっちでしょう?昔も、そしてこの瞬間も)
どこまで意識をしていたのだろう。確かに当初の王子のそれは優しさに似たものだった。けれどやがて見せたのだ。互いの心の仕組みの解離と、非人道的残酷性を。俺はめちゃくちゃに扱われ、何故かその都度抱き締められた。王子はとことん掌握し、手足を千切っていたぶった。
(そう、気さくで呑気で、気のいい姿、ネジが緩んで見える様すら、全部演技、偽物なんだと、嫌というほど見せられた)
愛を擬態し近づいてきて、俺は好きとか嫌いとか、嫌とか許してなんて言い、やがて抱いて欲しいと叫び。都度突き放されて、引き寄せられて、表情だけは親切顔で、虫のように扱った。王子は冷たく容赦がなかった。くまなく凡夫をこけにしながら、理屈や理性を壊していった。下々の愛とは肉欲だろう?と、ニンジン呪文を何度もかけられ、やがて俺の見つけた答えは、気持ちが良ければ何でもいいと、結局そういうものだった。欲しがるだけの玩具になって、だから捨てられたのだろう。終盤の記憶は朧気だ。俺は当事者であるはずなのに色んなことが思い出せない。
「からかってなんていないです。俺はただ」
「ただ、何だい?」
あの頃の王子の気配を感じて、思わず潤む目が憎い。
「隠さず教えてくれれば、と」
「ん?ザッキー、何をだい?」
「昨日、ちょっと人づてで。ああいう形で知りたくなかった。『あんたと俺の仲』なんだから」
しまった、と心で舌打ちをして、でもすでに遅かった。案の定、失言を聞いた王子の気配が一瞬にしてがらりと変わる。作り笑いも、温和な空気も、一瞬にして消え失せた。やはり化け物は潜んでいたのだ。怖気とともに知覚した後、破れかぶれになるしかなかった。
「やっぱり嘘の塊だ。あっちではこう、こっちではああ、あんたは何がしたいんですか?王子はどうして」
「何を言いたいのかわからない」
「わからない?わかりたくないだけでしょう?」
「違う。ごめん、困ってる。そんなに濁ってちゃ全然見えないよ」
抉られるように突かれる核心。猫に睨まれた鼠のように、俺はその場に固まった。
「見えないけれどわかってしまう。だからちょっと困ってる」
これこそ王子の素の言葉なのをすぐさま理解出来てしまった。概念的で意味不明、なのにざっくり伝わってくる。王子は沢山階段を降り、俺にアクセスを試みている。その思いやりを何故見せる?今こそ俺はとても悲しい。濁って見えなくなるくらい次元もずれてしまっているのか。
その時集合の合図があって、王子はすぐに元に戻った。
「いけない、今から練習だった。ザッキーも一緒に混ざるんだっけ?」
「……」
「行こう?急がないと怒られちゃう」
こういう時、走っていくような人ではなかった。のに。みるみるみんなの王子になって、あっという間に行ってしまった。練習がスタートしてからは、会話は愚かパスのひとつも、全くしないままだった。
*
怖い、怖い、ただそれだけで、けれどロッカールームに押し入って、身支度をしている王子に言った。
「この後、体、空いてます?」
王子は動きを止めもせず、気付かぬふりを決め込んでいた。練習終了後、たくさん人目がある中なのに、こういう感じは初めてだった。
「王子っ」
「怒鳴らなくても聞こえてる。周りに迷惑。静かにね?」
しれっと俺に恥をかかせて、王子はみんなにこう言った。
「ごめんねぇ?この子すっごく『赤』ちゃんなんだ」
揶揄に小さい笑いが立って、いたたまれない。最悪だ。
「お待たせザッキー、おーよしよし」
「何を言っ!」
「それじゃあみんな、また明日ね」
抵抗しかけた俺を制して、王子は手を引き部屋を出て、聞こえぬくらいの小さな声で。
「ねぇ……君は頭の悪い子だった?」
冷たい手先が手首に食い込む。有無を言わさぬ支配であった。
「嫌だなザッキーそんなに怯えて。別に怒っているわけじゃない」
その割に足早で強引で、挙句に車の助手席に蹴とばされるように放り込まれた。
「ってぇ!」
バン、と恐ろしげな音でドアを閉められ、思わずビクンと身を竦ませた。危うく指など落ちようものなら、怖いどころで済みはしない。
「さぁ、ザッキー何処行きたい?」
運転席に乗り込むなり、満面の笑みで王子は言った。何が何だかわからないまま、まさに唖然とした俺だった。
*
車は勝手に走り出し、王子の愛車の自慢が始まる。特別仕様、限定販売、購入したて、ほぼ新品。俺は車に興味がなくて、全然意味の分からぬ言葉を、黙って静かに聞いていた。
「お腹空かない?」
「……」
「無口だね」
鼻歌が聞こえてくるようだった。それが不気味で堪らなかった。王子が一つもわからない。そして知るのも恐ろしかった。
一体何処へ行くつもりだろう。高速道路をひた走る。
「卸したての車って硬いけど、最近ようやく馴染んできてね」
「……」
「ん、いいね。いい感じ」
やっぱり王子はご機嫌で、ニコニコ笑って運転していた。
「……ならね」
「え?ザッキー、聞こえない」
「隣に座るのが彼女ならもっと良かったでしょうにねって」
「……どういう意味だい?」
「どういうも何もそのままです。さっき王子に言ったでしょう?結婚間近だそうですね?えぇ、えぇ、本当に水臭いッス」
小さい沈黙が生まれて消えて、最初の言葉はこうだった。
「へぇ、そんな話があるのかい?聞いた覚えはない気がする」
ふん、と俺は鼻を鳴らして、そうですか?と不貞腐れ。
「誰から聞い……」
「そんなのどうでもいいでしょう?」
「でも少なくとも僕の口からじゃない」
「そうッスね。あんたからはここ数年、モテモテ自慢を聞くだけで?バカンスの相手に困ってるとか、最近寝不足なんだとか!よりどりみどりで嬉しい悲鳴?あの話は一体なんだったのか!ちゃっかり本命囲ってて、騙してたっつうことでしょ王子っ」
変なところで笑っているので、感情的に怒鳴ってしまう。
「ほんと!ひっでぇ!わかってたけど!」
「待ってよ誤解」
「誤解も何も、フロントには具合が悪いって?嘘言って新生活の準備でしょう?浮かれ調子もそのせいなんだ。全部昨日聞きました!」
興奮し過ぎて視界が赤い。赤い世界に浮かぶ黒髪。
「ちくしょう、あんた、本当に何なんだ……」
考えが読めぬと最近言われる。神秘的だ、深みがあると。そんなの俺にはさっぱりだった。でも久しぶりに怒鳴って思い出す。これがまさに俺であり、王子はこういう俺が俺だと、きっと誰よりも理解している。
「僕の幸せがそんなに憎い?」
「……っ」
王子の苦笑が美しい。俺を虐めて楽しむ姿が一番生き生きして見える。
「ねぇ、ザッキー。悔しいの?」
――僕にかまわれて嬉しいかい?
俺はつくづく馬鹿だと思う。図星を刺されて逆上し、出鱈目に噛みつく歯しかない。どんな時にも冷静で、対極的な試合感。心身ともにタフなダイナモ、それがこの頃の俺の評。王子の前では全て瓦解し、見るも憐れな些末を晒す。
(ああ、そうだよ、これが俺なんだ……)
無理をしているつもりはないし、演出している気すらない。王子は容易く弱みに触れて、まるでその目やその声は。俺をこんなにも、これほどまでに。だから実に数年ぶりに極当たり前に兜を脱いだ。
「……悔しかったら駄目ッスか?」
一体ここは何処だろう。エンジンの音を邪魔しない、小さく囁くBGM。畑、田んぼ、遠くには海。都会に隣接した緑。
「いいよ、ザッキー。全然いい」
(いいって、なんだよ。なんなんだ……)
なんだ、なんだと、自分で呆れる。俺には語彙が微塵もなかった。
(王子、あんたはマジ狡い……)
どこか物憂い横顔が光に溶けていくようだった。綺麗だなぁ、とやっぱり思う。笑顔はとっくに消えていて、どこか遠くを眺める目。機嫌が損なわれているわけでもなく、ゆったりただただそこに居る。漏れる吐息が甘い気がする。俺には見える目がなくて、何度も独り善がりの世界で、うろうろ彷徨いくたびれ果てる。
(キツイよ王子。助けてくれよ)
一緒に居る。嬉しく、辛い。だって王子に本命が。ぞっこん、それこそ骨抜きらしい。ここ最近の煌めきは、彼女に捧げる真心だとか。ちゃんちゃらおかしい。笑ってしまう。呪詛は溢れるばかりになって、全部王子に丸見えで、どうしていいのかわからないまま、それでも傍に来たかった。
「王子。俺に言うべきことがあるでしょう?」
「何?全然わからない」
些末な俺に出来ること。勘違いと逆恨み。醜い本性がよくわかる。俺は嫌な人間だ。
「いいんスか?リスクの俺を放っておいて」
「君は僕のリスクなの?」
「ぶち壊すくらい簡単だ。俺がその気になりさえすれば」
「おや、僕を脅す気かい?」
王子はチラリと俺を流し見て、クスリと笑って前を見た。
「脅迫じゃない。優しさです。あんまり色ボケしてるから。わからないあんたじゃないでしょう?」
「ふふ、そうか。優しさか」
のらりくらりとした会話。でも空虚はさほど感じられない。噛みつく俺をそっと受け止め、傷つかないよう配慮まで。まるでヒトの情動だった。王子はとうとう愛を手に入れ、ちゃんとヒトになったのか。俺はもう王子のリスクじゃなかった。あの日々を信じる者などいない。俺ですら記憶が曖昧だ。王子は過去に折り合いをつけ、愛おしい人と生きている。
「いいから、一回だけでいい。あんたが俺に言いさえすれば」
当然の権利と考えた。いわゆるけじめというものだ。ヒトになった人だから、ちゃんとすると考えた。でも。
「愁傷に頭のひとつでも下げろと言うのかい?それで君の気が済むと?」
あの日と寸分違わぬ言葉。それでもまるきりあの日と違う、とても不思議な物言いだった。
「……マジで嫌いです。俺、あんたのそういうところ」
俺のあの王子はもういなかった。人として謝る王子を怖がる俺をすぐさま察知して、化け物の素振りをしてみせたのだ。彼はヒトになってしまっていたから。心の伴うその優しさを、たかが捨てた玩具のために。
*
予約もなしに訪れて、席があるのは幸運らしい。
「良かったね、ザッキー」
隠れ家のような不思議な空間。ダークブラウンのテーブルに、シックなランプ、ザックリとしながら粗野でない、独特のセンスの料理の盛り付け。
「君ってお肉好きだったよね。ここのヘレは最高なんだ」
夫婦でやっているというこの店の、女性の方のあの視線。たったそれだけでわかってしまう。
(幸運?ったく馬鹿馬鹿しい。あの嫁の方、ぜってぇ王子と昔なんかあっ……)
眉を寄せる俺を無視して、王子は沢山注文していた。原木手切りのプロシュート、初めて食べる不思議なチーズ、オリーブのマリネ、砂肝コンフィ、飽きれるくらいに並べ立てられ、負けじと俺もがっついた。
「美味しい?」
照明が暗いとよくわかる。以前より陰影が色濃い王子の輪郭、それは加齢というよりも。
(痩せたな王子。そりゃそうか)
彼はスタミナが自慢の選手じゃなかった。動きは省エネ、一極集中、けれど今はそうではなかった。
(王子、そんなに真剣なのか?)
アジリティを誇るタイプでもない。そんな王子は年々過激なまでに変化していた。どちらかと言えば手堅さを、リスクよりも確実を、それが今では賭けを好んで、それ故必要な変化であった。ド派手が過ぎるプレイの影でこそ、王子は静かに輝いていた。己の才の全てを投資し、恐るべきタフネス、気力と気概で、最適解の守備をしていた。無理がかからぬわけがない。泥臭ささえ厭わずに、思いを周りに覚らせず、何度も動画に心奪われ、チームメイトに嫉妬した。咲く気もなかった王子の大輪、俺は羽化するその瞬間を、この目で間近で見てみたかった。大きな花ほど枯れやすいのに、それを知らない人でもないのに、自ら意思して咲いたのだ。鳥肌の立つほどの大輪を。
「どうかした?」
「いや、つくづく嫌いだなって」
好きと言ったらスルーするのに、嫌悪を示すと綻びる顔。
「あの、だからそういう顔が嫌なんですけど」
「あはは、本当に嫌そうだ。眉毛が寄り過ぎてくっついちゃうね」
悪びれもしない王子に向かって俺は小さく吐き捨てた。
「……ガキかよ」
聞いた王子はニッコリ笑って、もっと言って、と更に笑った。
会計時に俺が金を出すのは、とっくの昔に諦めている。
(つか、王子っていつも金払ってねぇんじゃねぇか?そういう場面を見たことがない)
また来るよ、なんて王子は言って、店の人も普通に見送る。いつも不思議な光景だった。そして今日もそうだった。車に乗るなり王子は笑って、俺に向かってこう言った。
「ありがとザッキー、ごちそうさま」
「は?」
ダッシュボードを指差して、王子はパチンと片目を閉じた。
「あ、ああ……(そういうこと)」
奢られた回数は数知れず。けれど値段もわからない。俺は王子にこっそり秘密で、助手席前にあるグローブボックスの奥底に、僅かながらのお金を入れた。
「僕としたことが気付かなかった。君ってプライド高いよねぇ」
「いや、だって」
車検証の下の下、奥に見えないように押し込んだ金。奢られるたびに少しずつ。何故俺の仕業と察知したのか、そんなことには疑問がなかった。こんな無粋をやる人間は、王子の周りにいないのだろう。
「ん?」
「どうせ可愛げないですよ」
「そんなこと。とってもいい子と思っているよ」
その言い草に心臓が跳ね、そのまま動悸はずっと続いた。外はすっかり真っ暗で、運転席もよく見えない。
都内に向かう長いドライブ、同じ長さの沈黙の中、結局王子は小さい声でポツンと俺に謝罪した。
(ああ……どこまでもあんたは正しい……あまりに残酷過ぎるほど……)
ほんの数分前までは、笑顔の王子に不貞腐れる俺、わいわい騒いで食事にドライブ、それはまるで昔の俺達、でもこの瞬間が訪れて、最後の夜だと俺に知らせた。真っ暗な世界に建物の明かりが増えていく。淡い光の洪水の中、王子はそのまま口を閉じ、静かに前を向いていた。
「……別に。あんたがクソなのは知ってたし」
ふ、と王子が笑うので、その口元をジッと見た。王子の謝罪は幻聴ではない。纏う空気がそう言っていた。頭一つ下げられて、俺もまたそれを手に入れたのだ。世界に恋する王子の微笑を、恵みのような潤いを。そうそう、王子はこういう人だ。俺のことを皆はわからないのに、王子はいつでも誰より俺より、こうして理解してしまう。
(そう、俺はこれに耐えられない……わかってるんだ、何もかも)
わかっていてなおそれをやるのは、それがすべきことだから。俺が弱くて脆かろうとも、受け止めなければいけないからだ。
(うわぁ、いくつだよ俺。堪え切れない……)
王子は涙を笑わなかった。いつでも笑ったことなどなかった。
(ああ、終わりなんだ。何もかも)
誠意を見せろと恫喝をして、俺が自ら望んだことだ。終始王子は朗らかに、でも、それでも、謝る瞬間、微笑みの全てを片付けて、ただただ真摯に。真剣に。
*
耐えられなくて、傷ついて、全部俺の自業自得で、王子は『僕が悪い』と俺に言い、だからこそ思いのこもった言葉が逆説的に更にまた。
「こんな頭下げたところで……十分それもわかってもいる。君は僕を呪えもしない。その優しさが不憫でならない」
「もういいッス……」
「あまりに憐れで胸が痛むよ」
「もういいッス!」
黙れと言わんばかりの態度で、それでも王子は俺に従い、寄り添うみたいに運転していた。意味もなく迂回を続けるドライブ。まるで俺の気が済むまで付き合う感じで、今まで何度も肌を合わせて、それでもこんなに傍に居るのを感じたことは一度もなかった。でも何度も何度も夢見てはいて、この現実は幻想的で、夢のようで、夢にしたくて、亀裂が今はただただ悲しく、何も考えたくもなかった。王子は人になってしまった。寂しい。それでもおめでとう。
