そよ風ロマンス第5章(そよ風ロマンス最終章)
【27605文字】
実に2年半くらい前のシリーズの終章。今回は改ページごとに視点が交互です。
中断して気にはなっていたんですけど、書きかけに掃除と追加などなど。終盤一瞬ジーノが下品。似たような話ばかり書いてますけど、今回は番犬がこじらせです。
自チームのシーズンがオフになり、俺は帰国したその足でここに来ていた。懐かしい芝生の上ではなく、私服で、ふらふら、ただの部外者だ。
「あっれぇ?やぁ!ザッキー!」
あの日以来、王子はもう俺を無視しない。それなりのケリがついた今、彼なりにもわだかまりがあっただろうと今更ながらに理解した。大きく手を振る彼に向って小さくてをあげて挨拶をする。
(なんて明るい顔で……)
知らぬ前に増えていた光の笑顔が、目を逸らしたくなるほど降り注ぐ。
羽化とも思える変化の裏に、寄り添う見知らぬ一人の女。前回聞いた話によると数年来の付き合いらしい。まことしやかなうわ言、戯言、それでもそこには矛盾がなかった。いくら本人が隠したくとも、彼の劇的な変化というのは推論を結論にする力量がある。
*
次の日。その人はやはり相も変わらず長い髪と密なる睫毛、前とはまるきり別人の穏かな光にその身を包み。
「どうも。朝から元気そうでなによりです」
「ふふ、まあね」
長袖で一人、みんなと離れて、静かに、勝手に、調整していた。こういう姿を毎日見ていた。今でも年に短い期間、ここでそれを毎回見つめた。
よく運は実力と王子は言って、持ちうる運命のひとつだとも言った。俺の移籍を諸手で喜び、これ幸いと微笑んでいた。
(もういらないと。もしかしてすでにその人と始まっていたんだろうか……?)
結婚はまだ済んでいないようだが、関係は続いているとかなんとか。それほど王子は安定していて、揺らぎのひとつもないようだった。
(聞く気もなくてもなんか耳に入ってきてしまう)
ある日流行ったあのアプリで俺は理想の女に恋をした。それに心を奪われて、似て非なる宇宙人に捕まって。
「何?思い出し笑い?気持ち悪いなぁ」
すぐそこの木立の陰で。クラブハウスの片隅で。車と車の間に隠れて、変な日課をこなしたり。時にはこの世の全てから逃げ出すみたいに、ダッシュで帰った。
(すごいな……やっぱり頭がめちゃくちゃになる……今にも吐いてしまいそう……)
それでも俺は王子に会いたい。そして俺だけに生じる意味は、とっくにただの無意味であった。ここに居るのはただの別人。皮だけ王子のフォルムを保った王子であった人なだけ。
(俺のあの人はもうどこにも……)
「ザッキー、駄目だよその癖」
ふと変な痛みに気付かされる。唇を噛んでいたようだ。
「治ってないのか。気を付けて?」
その一声に失笑が漏れ、ついでに。
「……」
耐えきれなくて呼吸を止めた。虫を見る目の王子はもういないのに、時々言葉が突き刺さる。
(違う、これはあの人じゃ……)
とても優しい目で俺を見て、心配そうに気に掛ける。いわゆる夢見た王子そのもの。ちょっと変わった人柄の、おとぎの国の王子様。これこそまさにノブレス・オブリージュ、絶対的な隔たりの。
「どうしたの?大丈夫?」
「いや、ちょっと……」
あの人はこんな顔などしない。俺を踏んだり虐めたりする。泣いて嫌がる姿を見下ろし、いたぶり薄っすら笑ったりする。消えたはずの記憶の数々。嘘か誠かわからない、絶望的で、心地がよくて、逃げ出すべきだと考えながらもずっと触れていて欲しかった。
(あれ?俺……なんか、マジに……あ、ヤバ……)
ぐらり、膝から崩れる俺を王子は素早く両手で支えた。そんなつもりはひとつもなくて、けれど一人では真っ直ぐ立てず、王子の胸に体を預けた。
(ああ、なんでこんな……)
汗のにおい、肌の感覚。記憶の澱が渦を巻き、ゾワリと全身鳥肌が立つ。あの頃、その気配だけが蘇る。
「待ってて、今すぐ人を呼ぶ」
俺を支えるこの人は、姿形がとても似ている。仕草も動きも優雅でなめらか、これは一体誰なのだろう。
(だいじょう、ぶッス)
返事したいのに声が出ない。暑くて寒い。わからない。俺は十分正気なはずで、なのに突然起きた邂逅が、俺を過去へと連れ去っていた。でもそこには誰ももういなかった。ただ俺はポツンと一人っぽっちで。
「全く……しょうがないなぁザッキーは」
脳を犯すような囁き声が静かに奥底に注がれた。願望が見せた夢なのか。思考が霧散しままならない。
「医務室で少し休んだら、僕の家で待っててザッキー。早めに僕も上がるから」
過去繰り返された絶対命令。でも今のそれは命令でなく。
ただぼんやりとへたり込み、世界で一人迷子になった。何故見知らぬこの人が、優しさ滲むその声で。もうそれに戸惑う余裕もなかった。自分の自由はほとんどなかった。本能だけのあの頃みたいに。
*
実家に帰ったある夜のこと。引き出しの奥にそれを見つけた。それが何か思い当たらず、わからないことが不思議に感じた。あれからずっと変だったのだ。俺はあちこち変だった。
そして今、何が何だかわからないまま、ソファに座ってぼんやりしていた。戸惑いと何故が渦巻いて、俺は変なままだった。王子の部屋は変わらぬ間取りで、なのに見知らぬ家具とカーテン、ライトもソファも全てが違う。待てと言われて指示に従い、ここで何を待つというのか。ここは王子の新世界。新しい本命彼女との部屋。
帰宅した彼はこう言った。
「んー……君にただいまって言うのは違うよねぇ」
「……」
さも朗らかで明るい笑顔で、荷物を置きつつさらさら歩く。
「前はどう言っていたっけね」
仕草はとても見慣れたもので、でも明らかに気配が別物だった。けれどこれが普通の姿で、俺は改めて思うのだ。あの日々は本当に夢かもしれない。もしかして俺がここに来たのは、今日が初めてのことかもしれない。
(そんなわけない……わかってる。ちゃんとわかっているはずなのに)
どうぞ、と温かい飲み物を差し出され、見覚えのあるカップに違和を感じる。別の次元に迷い込んだ漫画のキャラのような気がした。
「混乱しやすいのは昔のままだ」
そうして王子は笑うのだ。俺の気持ちを全部無視して、当たり前のように言う。
(ああ、痛い。胸んとこ串刺しされたみたいに)
最近、ミステリアスだとよく言われ、気持ちが見えないと言われ慣れ、なんでそんなに冷静なのかと、慌てることはあるのかなどと。それが今の俺であり、俺もそうなんだろうかと。でも彼はそれをあまりに容易く、こうして否定し粉々にする。一度は忘れ、その後に再生、生まれ変わったような心で、なのに心が過去を追う。一緒に過ごした悪意を探す。嘘も繕いも許さない、かの人のその目を、幻を。
やはり穏やかな表情で、彼は部屋に静かな曲を流した。音は脳には届かずに、責めるような言葉が浮かぶ。
「なんで?」
漠然とした問いではあった。俺は話が上手くはなくて、王子がこうして黙ってしまうと場が持たなくてきつかった。だからゴクリと生唾を飲み込んで半ば無理矢理に言葉を続けた。
「鍵、持たしたままなこと……気付いていないと思ってました」
「ふふ、さすがにそこまで無頓着じゃない」
「いや、それ放っておくのは駄目でしょ王子」
俺もつい最近まで放念していた。
(いや、引き出しにこれを見つけた鳥肌、少し意味合いが違う気もする。ともあれ、その存在に気付いて間もなく使えと王子が言うなんて)
*
以前、練習場に着いた雨の日。たまたま王子がお休みで、会いたく思い家を訪ねた。
(車、あるな)
十万を超える月極に、車体は変われどマセラティ。呼び鈴を鳴らしても反応はなく、諦めきれずに暫し悩んで、震える指で電話を掛けた。着拒設定の恐怖もあったが、きっとどうかしていたのだろう。
(あ、鳴った……)
殆ど奇跡と汗ばんで、気の遠くなるコールを聞いた。あの人は出ずに切るのだろうか、それとも無視を続けるか。半ばうっとり、朦朧と、本当に俺はどうかしていた。
『……ん……』
その声を聞いて心臓が跳ねた。ごそごそとした雑音と、吐息のような応答。
「お、うじ?ッスか?」
『……』
時々雨の日休むという。具合が悪くなるらしい。もともと雨を厭うタチだが、それは変だと俺は思った。確かに不調はあるやもしれぬが、それは雨が原因ではない。これが俺の感想だった。だから確認したかった。一体どういうことなのだろうと。
「マジで、その、くたばってたり……するんスか?」
俺のぶしつけな質問に、返事の戻ることはなかった。時々やはり布ずれの音、応答というより誤操作だろうか。
「今から、行って……いいッスか?」
あまりに無意味な確認をして、切れない電話と握りしめ、息を殺してしばらく待って、王子の気配の堪能をした。
(寝息?王子、このまま寝ちまったのか?)
俺が確認したかったこと。あまりに劇的なプレイの変化、そして今朝方聞いた噂。繋げてしまうのは仕方がなかった。それほど異変に近かったのだ。
「入ります。ちゃんと俺王子に言いました」
聞こえないくらいの小声で言って、返事を聞かずに切ってしまった。不法侵入に近いのは、十分わかっていることだった。
盗人のようにドアを開け、薄目で靴の確認をする。出先のベッドの中かもしれず、ここなら誰かといるかもしれず、俺は招かれざる出歯亀よろしく、そっと後ろ手で戸を閉めた。
「……」
女の靴は置いてなかった。一緒に住んでいるらしいという話だが、これだけじゃ事実はわからなかった。それよりもこの以前と変わらぬ香りがふわりと俺の体を包み、ひくんと背筋に怖気が走った。数年ぶりの甘怠さ。
俺は忍び足で中へと入り、真っ先に洗面所の確認をした。整頓された備品の中にも、女性を思わせる気配がなかった。
(相変わらずの美的センスだ)
その時、繋がった通話の向こうに王子の目ざめの気配を感じた。
(げっ、ヤバい)
みるみる冷たい背汗がふき出て、慌てて(それでも息を潜めて)逃げ出すように家を出た。
*
「ザッキー?」
「!」
不法侵入は毒となり、あれから更におかしくなった。王子はといえば健やかな微笑み、今がいつだかもうわからない。
「大丈夫?真っ青だ」
「……」
夢にまで見た(とはいえまるきり他人のような)王子の微笑みが、今また俺をズタズタにする。だから無理矢理会話を繋ぎ始める。
「いつから?」
「ん?」
「いつから気付いて?」
「ああ、鍵のこと?それは……いつだっけなぁ、覚えてないな。まあ、でもスペアは使うと携帯に通知が来るようになってるし」
「は?(何それ初耳)」
「万が一使用履歴が届いたら防犯カメラで確認してから返してもらえばいいのかなって」
朗らかな笑顔を、一体どう咀嚼すればいいのか。考えが全く追いつかないので、そのまま知らぬ存ぜぬを続けた。
「……それを無頓着って言うんスよ?」
「そ?」
でも知らぬ顔などただの無駄であるのを、あっという間に告げてきた。
「まあ、君は基本いい子だし、何の問題もなかったわけで。結果オーライでいいじゃない」
「そんな出鱈目な……」
笑って手のひらを差し出したので、苦笑しながらカードを返した。
*
彼は何をするでなし、ゆったり座って寛いでいた。目も合わせられずにいる俺を、責めるでもなく、煽るでもなく、ただそっと寄り添うようにそこに居た。なんで、が沢山浮かんでは消え、日差しがとても眩く思った。
「なんで……」
そう、限りなく浮かんでは消え、王子は静かにそれを見ていて、それにまた何故が心に浮かぶ。何をわかっていたつもりでいたのか。俺は何もわかっちゃいない。
「あんたが全然わからない……」
微笑みなのか、憐れみなのか。やはり王子は黙ったままだ。
「わからないッス……何一つ」
色んなことがおかしくて、頭の中がごちゃごちゃで。
「そんなに何が知りたいの?」
言われて初めてそれに気付いた。付き合う義理など彼にはないのに、なぁに?と笑っていてくれた。何でも聞いて、と。
「……」
「結婚の話は……もうしたね?」
「それはおめでとうもすでにいいました」
「ははっ!そうだね、そうだった」
聞きたいことは沢山あった。けれどどれも違う気がした。そういうことではないと思った。
「突然言われても思いつかない?君の予定が何もないなら、何時間でも付き合うよ」
「……」
ではまず、と今の動機を聞いた。王子はしばらく考え込んで、そのまま静かに。
「確かに奇妙に思うよね。こうだからだよとはっきり言えない。僕にもいまいちよくわからない」
どんな残酷より深く抉れる、そんな究極の結論だった。俺を混乱させるためでも、騙すために言うでもない、ただの本音とわかったからだ。
*
関係がすでに閉じているのに。その疑問を俺が投げかけようとも、王子にもわからないらしかった。罠とも言えない。贖罪とも。もの言いたげで、あやふやで、昔とも違うわからなさ。
「最近、ETUの試合、よく見てて……」
だから、他愛無い日常会話を始めた。王子は時々目を細め、ぽつぽつと小さな返事をし、無為で有意義な時が流れた。
「あのシーン、絶対次はニアに来るって、でも王子の選択は」
遊びの好きな人ではあった。それでも基本保守的で、ギャンブルよりも手堅さで、今は何より自由であって、力を借りつつ、力になりつつ、それは彼が求めていたもの。
「嫌いかい?そういうの」
「興奮し過ぎて困ります」
「ふふ、そう?」
選択の変化は表面的で、重大な違いはそこではなかった。
「俺、でも全然あんたを褒める気ないです」
「……」
「わかりますよね?正直結構怒ってます」
王子は一瞬意地悪な視線を浮かべ、再び素知らぬ顔をした。
「結局、練習をさぼるのもあれが理由だ。なんで周りはあんたを止めない?」
「聞かなくってもわかるだろう?」
「あんたがいうことをきかないから?」
チラリと覗く、王子の本性。
「そんなにいい恰好したいんですか?あんだけやって試合に勝つって、その女どこまで意味が分かって?」
王子が女に入れあげている。それで真面目な態度になって。そんなの全然寝耳に水だ。年に数回の再会時、いつものフラフラ取り留めもない王子の嘘に丸め込まれた。
「俺、許せないです。そういうの」
チームメイトの噂話を、フロントは笑って否定していた。女のせいであるというのは不調を隠匿するブラフだと。人に聞く度、話は変わった。
「らしくもないし。そういうの」
王子の選択は変化した。多くのリスクが生じるチョイスで、何がそこに生じるか。そこを避けていた利口な王子が、それをして何を得るというのか。
元々、得体が知れない人ではあった。王子が『王子』をやる光景を、そういう姿を見せられてきた。天才的な選択眼、現状の分析、未来の予測。無理と無駄を削ぎ落す、潮目を見限るその冷徹。シンプル、卓越、スマート、華麗。それが以前の王子の姿だ。彼ほど己を知る者はなく、それを俺も理解していた。
「わからない、そんなのあんたじゃない。だから、あんたがわからない」
可動域の広い体の資質は、それ故の危険も内包している。衝突を避ける行為は典型的で、アジリティやスタミナが武器の選手じゃなかった。王子は、リスクの高い、華麗なチョイスを、実現するべく体を張った。神経を焼くような苛烈な洞察。コンマ以下の成功率をも上げるため、すべての加算を考え走った。人間がやれることではなかった。何よりも大切なはずの、選手の命を削ってまでも駆けて具現し、強いられやれることではなくて、だから尚更憎く思った。王子が何を投じているかを、知らずに受け取る女の影を。
「あんた30前に引退する気か?その女、いっそ殺してやりたい」
「……」
「あんたの才を食い潰す、王子自身も一緒にね」
「物騒だなぁ、ザッキーは」
ウエイトが落ちた王子の肢体は、吹けば飛ぶようなというよりも、アスリートの種族でない人類としての美のありったけを表現していた。
(んだよ、無駄に綺麗になってしまって)
窓際に座る王子の形は、逆光に浮かんで揺らめいている。髪先、爪先、着ている服さえ、そのぬくもりを思わせる。
「でも、僕が好きでやってることさ。君には関係ない話」
そんなの言われなくても知っている。
「毎日が楽しくて仕方がない。君には関係ないことだけど、その優しも嬉しいよ」
「優しさじゃねぇし、怒りですけど?腹を括ってんのも百も承知で、だから尚更頭にきてる」
「……」
「あんたは本当に勝手な人だ。自分だけが良ければいい」
こんなことが言いたいんじゃない。ただの嫉妬が、惨めにさせる。
「何が連勝記録だよ。くそったれだ。反吐が出る」
海外移籍に代表選出、夢の欠片を次々手に入れ、何の不足もないはずの。でもこの俺の人生に、あまりにも王子がいなかった。やり方に腹が立とうとも、これはかつて叫びたいほど欲しくてたまらぬ者だった人。愛に賭する未来など、見たくて、そして見たくなかった。王子は過去に、俺に向き合い、切り捨てもせずに子守りをし、遊び終わった壊れた玩具をまるで人であるかのように。
「大丈夫だよ。ありがとう」
自重はしない、と目が言っていた。彼は誰に言われても今のプレイを曲げないだろう。その身も心も捧げるみたいな、究極の幸を手にしたのだろう。彼はとっくに一人ではなく、全てを投げ打つ価値のある素晴らしい人と生きている。
「君が思うほど無理してない」
「俺はっ」
「ごめんね。そんな思いをさせて。ごめんね?ザッキー本当に」
その表情は微かに甘く、俺の悪意も掻き立てていく。
今日初めて俺を見た時、視線の流れにはっきり気付いた。
「これをちゃんと見た上で?」
俺がネックレスに指を掛ければ、明解なほど視線が逸れた。
「招いた動機を訊けば濁して、そうして無暗に謝って。あんだけ自分を投じるその愛、本当に価値などありますか?」
「……」
「悪さする気力、残ってますね?それ、誠実って言えますか?」
胸ぐらを掴んで顔を寄せ、ゆっくり王子に口づけてみた。王子はすっかり強張っていて、俺は自分が悪魔に思えた。死んだはずの俺の王子を、揺り起こす真似をやったのだから。
*
俺達はキスなどしたことがない。俺から何かをしたことも。
「ねぇ、顔が真っ青だ。こんなこと君らしくもないし」
突然の眩暈はよくあることで、慣れていたので意外と平気で、それでも今日はあまりにも。
「ザッキー?何?どうかした?」
(王子……)
「大丈夫?ねぇ、返事して」
前後の記憶が定かではないが、どうやら眠っていたようだ。時差ボケも無視して会いに来て、そういう挙句の顛末だった。眠ってちょっとすっきりとして、でも虚しく手持ち無沙汰な感じで。
(ここも色々変わってるけど、そうか王子の寝室か……)
ベッドは昔のままだった。何度も王子に搾り取られて夢うつつになり眠ったところ。
「起きた?」
「……」
ベッドに腰掛け見下ろす王子は、心配そうな表情で。
「体調、あんまりよくないんだね?お医者さんにはみせてるの?」
「別にただの疲れです」
「……」
「本当ですよ。寝不足です」
「寝不足も体調不良さ立派に」
起き上がろうとする俺を制して、そっと王子が布団に戻す。
「判断能力もおかしくなって……これと僕は君のトラウマ。無理をしてるのは君じゃない?」
指先で静かに鎖に触れて、魔法のように外してしまった。他を繋げていないのも、全部わかっていたらしい。
「まだ顔色が戻っていない。もう少し眠っていた方がいい」
「……」
有無を言わさず。それでもやはり命令でなく。温もりと寂しさを感じながらも、王子に瞼を閉じさせられた。
最近体の調子が変で、しばらくそんなじゃなかったはずが、疼いてたまらなくなる日があった。断片的な記憶が過ぎり、最初はゲェゲェ吐いていた。そして指を喉に突っ込み、吐き慣れしてきたその頃からだ。記憶は体と直結していて、喉奥をいたぶるこの感覚が俺を過去へと連れ去った。良くないことだと理解はしていた。なのにあの夜、引き出しの奥、カード(鍵)と一緒に鎖を目にして、理性はどんどん愚かになった。全部閉じ込めておくべきなのに、自分で自分をいたぶるように。
俺は小さい頃からの大きな夢を、日々叶えつつあった。ギリギリプロから脱出をして、ついでに日本からも飛び出して、時々代表ユニも来て、向こうの言葉もそこそこ上達、まだまだ足りないところはあったが、順風満帆以上の成果。家族も友達も喜んでいて、勿論俺も幸せで。
(ああ、懐かしい……王子の匂い……)
俺らはキスもセックスもせず。口、乳首、尿道でイいかされ、そして。
(俺は虫けら、王子は飼い主、ただそれだけの、あまりに無価値な……)
王子はそういう人だから。俺は受け入れてしまえるし。そう思いながら生きていたのに、もうどうしていいのかわからなかった。悪夢の中でも女は殴れず、王子を蹴り上げることも出来ずに、卑屈で皮肉な苦笑を浮かべて、ただそれを見ているだけだった。俺は優しいわけではなくて、ただひたすらに弱いだけ。どうしていいのかわからなかったし、どうにかなるようなことでもなかった。
吐き気で途中で目が覚めて、王子の枕を汚してしまった。王子は俺の空吐きが静かになるまで背中をさすって寄り添っていた。汚れを気にする俺を労わり、
「洗えばいいこと。気にしない」
(王子、助けて寒くて熱い)
「鳥肌が。布団増やそうか」
(駄目。王子いかないで)
心の叫びが聞こえるみたいに、王子は全てを引き受けていた。
(抱き締めてくれるだけでいいから。王子、今だけここにいて)
誰にも話せぬ悩みと苦悩。
(王子、王子の肌が欲しい)
言えるわけもない我儘。
(お願い、王子。王子が欲しい。王子が欲しくてたまらない)
思いは膿んで弾けてしまって、自分にもどうにも出来なくて、かつてもらったにんじん呪文を、うわ言のように呟いていた。
(王子、好きです。ごめんなさい。あんたなしでは生きていけない)
寝てくれないとはわかってもいて、言っても詮無きことも理解し、それでも無力に呟く俺を、王子は黙って抱き締めていた。
*
ここはいつ訪れても快適だった。夏は涼しく、冬は暖か、けれど湿度が高いわけでもないのに雨の重さが漂っていた。そして今日は一段と、濃霧の中での呼吸みたいに酸素が足りないような気がした。王子はとても雨に弱くて、なのに雨の住人なのだ。
(王子、本当に雨みたい……)
静かに寄り添う今の王子は、雨の持つぬくもりのようだった。胸から足から全てを添わせて、沁み込むみたいに共に居た。体を繋いだわけでもないのに、まるでひとつになってるみたいで、思えばこれを知ってる気がして、それでも眠さで朦朧として。
(全てを忘れてこうしていたい……)
彼が誰かのものであるのも、俺がひとりであることも、何もかもを消してしまって、ただただ今があるだけで。
*
「王子」
「……」
「寝たふりしてもバレてます」
寝ているのかもしれないし、ふりをしているだけかもしれない。そんなことはわからない。わからないからこそ俺は言う。返事はない。
「馬鹿かよ王子」
本気で馬鹿だとつくづく思う。
「こんなの、マジでクソですよ?」
「酷くない?」
「ほら、やっぱ起きてんじゃねぇか。性格悪ぃ」
「ふふ」
「あんたもマジでクソですけども、最低なのは俺ッスね」
本音だ。泣きなくなるほど悲しい本音。
「そんなことないよ」
「そんなことある」
「ないよ全然。僕が君をそうさせた。誰にもあげたくなかったからね」
(……え?)
思わぬ言葉に戸惑う間も、王子は更に続けて言った。
「胸が痛むし、とても苦しい。なのに嬉しい僕でごめんね」
昔、恋愛は罪悪だと綴った作家が誰だったのか、とっくに俺は忘れてしまった。でも。すぐにその続きを思い出すことは簡単だった。それほど王子は『神聖』で、しがない俺との差を痛切に。生き物も住めぬ綺麗な純水、王子の綺麗は死にも似ている。まさに静寂そのものだった。
