プリズム
【6564文字】
悶々とキュンキュンしている可愛い忠犬ザッキーのお話です。致してないんで全年齢、ですが書いているのは私なので特殊性癖、禁欲SM系をイメージしてます。このジーノはかなり純度の高いSであり、育て方も上手です。
王子が俺を犬呼ばわりし始めてから、少しずつ二人で出掛ける機会が増えた。好意を感じ合うのに至るまで長い時間はかからなかった。それでも確かめあう真似は、互いに綺麗に避け合っていた。心許ない、それでいて、未来を夢見る日々だった。
*
「王子、ほら。水っス」
「……ん、ありがとう」
酔った王子が夜中に俺を呼び出すのも、そう珍しいことでもない。こんな夜の我儘王子は、いつもより少し幼稚であった。
「ったく、毎回毎回……」
ある種の好意で繋がっていた。だから時折王子は甘えた。
この家の中で以外、酔った王子を見たことがない。通常は顔色も全く変わらず、態度も口調も何から何まで、いつもの調子のままだった。本当にザル並みのタイプに見えた。だから『酔った』とソファで伸びている、気怠い王子は奇妙であった。
(そう、本当にほぼ変わらない。違うのは)
酔って『おいでよ』と呼ばれた夜、視線だけがいつもと違った。
「してよ。面白い話とか」
「ねぇっスよ。そんなもん」
「じゃあ、くだらない話でも構わない」
「はっ」
『眠れないんだ』と王子は言って、千夜一夜物語の王様みたいに、俺に寝物語を所望する。こちらとしても慣れたもの、立てと冷たく言い放つ。
「じゃあ、ザッキー手を貸して?」
「なんでですか。馬鹿馬鹿しい」
酔った王子は寂しがり屋で、俺はいつでも跳ね返り。伸ばすその腕を払われるたび、ニヤニヤ笑う人だった。
(この人の酒癖、めんどくせぇなぁ……)
払われるために伸ばす手は、悪趣味過ぎる王子の癖だ。他愛無くもどこか意味深、不穏な遊びを楽しんでいる。
「……眠れない」
王子は俺を招き入れ、駄々っ子みたいに甘えて笑う。眠たいその目を押しとどめ、『話をしてよ』と俺の名を呼ぶ。さっさと寝ろよと繰り返し、『嫌だ』と王子に言い返される。
「今日、あれから何してた?」
「何って……別にこれといってなんもしてねぇッスよ」
「そう?息もしなかった?」
「ダァ、絡み酒ウゼェ」
繰り返す王子との不思議な夜は、まさに千夜一夜の不可思議。
「うんざり?」
「何スか」
「まぁ……それはそうだよな、って」
フフ、ハハ、と今度は奇妙な笑い上戸で、なのに雰囲気が冷え冷えしている。
「もしかして今日、マジで酔ってます?」
「フフ、……何それ」
なんだか少し様子が変で、けれどいつもこうかもしれない。王子のことはよくわからない。わからないからいつでも戸惑う。暢気を装う過敏な男に俺の心が波打っている。船酔いなんぞはまっぴらごめんで、フォローなんぞする羽目になる。
「いや、本気で立てないっていうんなら別に」
「……ん?」
「だから、その……」
俺から手を差し伸べても、王子はその手を取ろうともしない。これは手を払う俺への意趣返しなのか、厳格過ぎるルールであった。だから常に俺達は、手と手を取り合うことがなかった。俺は大きな溜息をつき、ガリガリと乱暴に頭を掻く。
「あー、もう。またそんな拗ねて」
「……」
「ウゼェっつったのがアレでした?」
「……」
「王子っ」
聞いていながら無視を決め込む姿に、もう一度頭をボリボリ掻いた。
(こんなことは大したことではない。別に、全然……)
問題なのは。
(駄目だなやっぱ……案の定……)
まるで自家中毒を起こすみたいに、不快が互いを循環し始める。
(ああ、嫌だ……またこれだ……)
俺達は時々こうなるし、二人ともこれが好きじゃなかった。
打開策は知っていた。なんとなくだ。ぼんやりと。
「今日は……」
一体なんの法則なのか。理解を仕切ってはいけないことだ。
「みんなで飯食いに行って、家帰って風呂入って歯磨いて」
「……」
「ぼーっとテレビ見てた。そんだけです」
これはとても奇妙なルールで、けれど劇的な効き目があった。
「そんだけです別に。これといって。ただの、平凡な一日でした」
物語でも何でもないこと。王子が本当にして欲しいこと。
「平凡で、退屈な。さあ、これでいいッスか?」
王子の表情からは何一つ読めず、ただ、そのどこを見るでない硝子の視線が、何故か絡みつくように感じられる。例えば、冷たすぎる氷が指にへばりつくのは、互いの温度が干渉し合い、水が氷に、氷が水に、変化させられてしまうが故だ。不愉快が体にこびりつくのは、不快と不快の生じる由縁が循環しあって止まらないから。
「……もう。さあ、いいっスか?」
身勝手な王子。
「……」
そして、同じく俺もまた。由縁に絡まれ胸が苦しい。なにもないのにある気配、なのにそれには触れられない。触れられたとして、それはタブーで、待てで、ステイで、伏せさせられて、様子を窺いみるだけなのだ。
*
こんな奇妙な夜を過ごすためには、いくつかの条件が確かにある。
(負けた試合後のリカバリの日。俺が仲間と出掛けた日)
王子は独占欲の強い男で、すべての注目を自分に集めずにはいられない。飼い犬が自分の不在の世界で伸び伸び生きているのを、楽しく過ごせてしまうのを、どこかで納得していない。それがだんだんわかってきたので、だからこそわざわざ聞こえよがしに、出掛ける用事を作ってしまう。
(……めんどくせぇのは俺の方だな)
俺達はなにがしかの気持ちで繋がれていて、心許ない空気のような、香りのようなあやふやが、この世界の平穏の秘訣であった。手と手を取り合えないのではない。俺らが手と手を取り合うようなら、もうすべての終わりであるのだ。俺には十分わかってしまう。何故なら、それほどこの人を(ともすると彼もまた俺を?)強く激しく思っているから。
千夜一夜の物語、昔の異国のおとぎ話で、残虐王と呼ばれる男は処女と契っては翌朝殺した。時を稼いだシェヘラザードは、やむなく彼に嫁いだだろうか。
(では呼び出しに応じるこの俺は?ああ、俺達の位置はぎりぎりだ……)
彼は飼い犬の毛並みを確認すべく、俺の一挙一動をくまなく見ている。心の所在、つまり飼い主の不在が如何につまらなかったか、確かめたくて俺を呼ぶ。そんな風に呼んではいけない。そして来る義理も欠片もない。視線と微笑み、危うい切っ先。スリルと破滅は表と裏だ。
*
繋がる手と手を望んでいない。彼の意識は鎖であって、俺の手などは欲していない。
(それでも、翌朝殺してしまうには惜しいくらいは考えている?)
リスクを作って破滅を近づけ、王子は物語を所望する。話なんてなんでもいいと、笑いながらも答えは一つ。くだらない一日であればいい、そんな悪しき願いを携え。
(苦しい……王子、ひどく苦しい……)
彼は俺の些末な日常を知り、小さく、なのにあまりにも現金に。
「こら、だからそこで寝ちゃ駄目って言っ……」
自由な人。無防備な。
「ったくもう聞いてねぇし……んだよ。今日は落ちるの早えぇよ」
息が詰まるほど苦しくて、なのにとても幸福な。その表現が適切なのかはよくわからない。でも俺はこれを見るためにここに来ていた。この美しい残酷は、愛おしい人の形をしている。酔った彼は覚えていない。大事な記憶は俺だけのもの。電話は記録に残っていても、その内容と今の事実は、俺の脳以外に痕跡がない。何を話したか問いもしないし、今日俺がどう過ごしたかも王子は忘れる。虚ろで、不快で、快感で、苦痛で、甘くて、切なく、愛しい。手は取り合わない。確認しない。ここに来るたびいつも思う。この限界をもう少しだけ、乗り越え今が続きますよう。同じ願いを彼も持つのか。それすらも問えぬ俺ではあるけど。
*
俺とは忠実な番犬であり、確かに牙も爪も無力で、腹を見せて平伏し、しっぽを振って媚びてしまう。貴方にだけだといつでも必死で、見ても欲しいし、笑って欲しくて、そういう自分が気恥ずかしいまま、千夜一夜の甘さを祈った。
「ほら、起きて。王子」
俺達は手と手を取り合わない。けれど、眠ってしまった王子のその手は、一方的にはこうして掴める。意識が消えたこんな夜、王子のぬくもりは熱くさえある。
(ふ……眠くて体温あがるとか、どっかやっぱ子供じみてる)
欧人の肌は木目が荒いと言われるが、ハーフな王子には当てはまらない。それでもやや脆くはある肌を守る長袖、こまめで入念なその手入れ。不可欠ながらも面倒くさげで、にもかかわらず自意識高く。
(しっかし、ほんとすべすべしてんなぁ……すっげぇ高ぇの使ってそう……)
ぐったりとソファに体を預ける姿に、胸が当然高鳴った。甲の血管は男性的で、シャツは拠れてシワ少々、ぞんざいに組まれた両の足は長さが邪魔だと投げ出すように。近寄りがたい造形美。なのに今こうして眠れる王子は、その荘厳とは裏腹の、人を惑わす魔力があった。聖と俗。畏怖と親密。遠さと近さを内包していた。
「王子、ベッド行きますよ?」
「……」
眠れないんだと呼び出して、なのにすっかり熟睡している。俺は王子に眩暈をしている。
「……はい、寝てますか。そうですか」
長めな前髪が目にかかり、それでも王子の色濃い睫毛は、その存在を主張している。ラクダのようだと腐してみても、もはや全てが無駄だった。
(ああ、眩んでいるのに目が釘付けに……)
王子には完全に意識がなくて、そういう人間の体は重い。俺は搬送の素人であり、エースに怪我などさせられない。
「……なぁ、起きてくださいよ」
安堵し無防備、寛ぎ眠る。『僕が居なくてつまらなかった?』と、まるきり愛を語られている。言葉がなくても、確かめなくても、引き合う心は絡み合い、空気が俺を身悶えさせる。
(頼むから起きろよ、色々ヤバい)
髪が梳かれたがっている。何かを切に求めてしまう。もはや思いは感情ではなく、生々しいまでの本能だ。俺は王子に身包み剥がされ、むき出しの自分に反吐が出た。
(なぁ、勘弁してくれよ……)
あやふやこそが大切で、見つめるだけで精一杯で、それがなにより拷問で。
(ちゃんとわかっていますから)
意識がなくて無防備で、王子は今を失念している。ずっと続けと、今すぐ終われと、竦んでこのまま動けなくなる。動けないのに衝動的で、必死に抑え込んでいる。そこには唇。投げ出す肢体。握ったその手は熱帯びて、そのまま腕を駆けあがりたい。そして今この瞬間誰よりも、掌握できるポジションにいる。
(……ちゃんと、しっかり、俺は……わかっ……)
悪魔は囁き、意思は脆弱、それでも思いが重過ぎて、どうにも彼を裏切れない。狂おしいほどに好きだから。抜け駆けの欲望は何より醜い。それは罪で、裏切りで、何よりも恐ろしい破滅であって、欲しいものを晒されながらも、待てを望まれ、支配を願う。俺は賢い犬だから。骨の髄まで躾けられ、自由なんかは欠片もなかった。寧ろ全部を捨て去りたかった。去勢されきってしまいたかった。
*
深い眠りにもサイクルがあり、こうして毎回眺める中でそれをも把握し始めていた。ヒクンと指先が反応する時、俺はギュッとその手を握る。
「王子」
「……」
完全には眠りを妨げぬよう、そっと体を抱き、起す。王子はあたかも夢遊病者で、ゆるりとその身を任せてしまう。
「さあ、そろそろいいッスか?」
「……?」
「行きましょう、こっちです」
「……」
大義名分がちゃんとある。どれだけ至宝な体であるかも、うんざりするほど理解している。その上で肩を貸し腰を抱き、
「歩けますか?」
と介助に徹する。ふわりと重さを感じなかったり、寄り掛かられてズシリともして、足取りはふらふらおぼつかず、まるきり今の俺達だった。
そっとベッドに横たえながら、任務の完遂に気が抜けて、緩んだ隙間に欲望が芽吹く。俺の本性は動物なので、ベッドの毒性で危険度が増す。
「……」
引力で腕がだらりとほどけた。はたりとベッドに落ちて沈んだ。四肢と眠りは深々と。邪心を次々引き千切りつつ、乱れた髪を直してやった。
(だからなんで……そんな顔……)
幸せそうで、邪気がなく、俺の指が小さく震える。酔った王子は気を許し、大好きだよと声なく微笑む。欲望が思いの祖でないにせよ。俺が欲望まみれでも。夢か現か、幻の今。でも確実にそこにはあった。
*
泣きそうになりながらしばし過ごして、
「おやすみなさい」
と部屋を出た。素面じゃ何も言わない王子の、無意識が俺を何度も呼び寄せ、俺もまた一夜を常に願って、逢瀬のような時間が生まれた。心も体も頭も全て、この一瞬にもパンクしそうで、必死になって家路を急いだ。来る時と同じに。闇夜に紛れて。
*
布団をかぶって、泣いて、泣いた。王子の姿がこびりつく。何に泣くのかもわからなかった。大切過ぎて、幸せ過ぎて、それが俺を苛んだ。
(……苦しい、王子っ)
王はシェヘラザードを殺さなかった。もう誰も殺さなかった。物語は沢山紡がれて、シェヘラザードは王と幾夜も過ごした。前妃の裏切り(不倫)への激昂も溶け落ち、王も幸せになっただろう。王子も俺も幸せで、喜ばしいことではあるだろう。
「う、うう……っ、っ、う」
横隔膜が痙攣するほど、しゃくり上げつつ泣いていた。思いとその名が溢れ出て、顔も心もぐちゃぐちゃだった。関係性は聖なるもので、とても高潔なものでもあった。その枠内に収まり切れない、俺の俗性が問題なのだ。彼は俺を気に入っている。独占欲が生じるほどに。一緒に居るとただ幸せと、あんな顔をして眠る。
「は、……っ、」
心許なく。であればこそだ。必死になって目を閉じて、零れる涙で枕を濡らした。
「うっ、うっ……」
体が熱い。燃えるよう。歯を食い締めてやり過ごす。苦し過ぎてへこたれそうで、欲情しながら名前を呼んで、誓うみたいに己を宥めた。穢すことは禁忌であって、見限られたら耐えられないと、ならば乗り越えられると思った。へとへとになるほど、でも泣き止めず、こんな夜はこうして眠った。
王子は無意識を制御しきれず、俺もまたそれは同じであって、こういう夜の朝というのも、いつも同じ目覚めであった。
「……」
願望の全てが詰まった夢は、俺の身体を自由にさせた。疚しき夢と欲の解放、心が重く体が軽い。生々しいほど赤裸々な朝。あわせる顔もないと思った。許されないのにやめられもせず、不可抗力だと邪心が微笑む。自分の全てに戸惑いながらも、それすら今では手慣れたもので、シャワーで流して、洗濯をして、腫れた瞼をタオルで冷やした。くだらなくて、かけがえのない、唾棄すべき、でも愚かで愛しい。
「ふ、呆れてほんと……笑えるわ……」
俺の日常は日々こうだ。どこかで、誰かと、何をしていて、笑って、ふざけて、じゃれさえしても。心細くて帰りたい。あの人の微笑みを摂取したい。苦しみを背負わせる元凶は、俺の日々の源であり、見ていていつでも呼吸を忘れ、離れて呼吸が出来なくなった。
「ああ、王子。もう会いたい……」
あわせる顔すらないくせに。
「会いたい……王子。苦しい……マジで……」
彼が居なくて色褪せて、こういう世界を微笑まれ。
「王子……」
残酷、はたまた光栄か。王子は俺の苦痛を願い、では今幸せが生まれているのか。休日の時間は遅々として、首を長くして明日を思い、王子を思い、今を噛みしめ、やっぱり少し泣いてしまった。思いは深く、破滅を忌諱し、感じとるだけで踏みとどまる。こんなに苦しくなるくらい、好きになれてしまったからには、もはや苦しみこそが喜びにもなる。だって俺の苦しみは今まさに王子に贈る宝石だ。俺だけにしか作れない。こんな幸せなことはない。疑いようもないくらい、明白な事実、俺らの現実。形がないのに少し歪んで、苦痛だらけのプリズム(幸福)を生む。国によっては邪悪な虹も、ここでは幸運のサインでもあり、やまぬ雨がない証明で、相対的な存在性はまるで王子そのものだった。
「雨……あ、そういえば今日は」
慌てて窓の外を見て、雨の気配に少し慌てて、洗濯物を取り込みながら眉寄せるかの人の姿が過ぎった。雨の休日の呼び出しもまた、ここ最近では定番なので。
疼く心をその身に抱えて、俺はいそいそ着替えを探した。電話があったらこう言うつもりだ。
(乾燥機貸してくれますか?)
ただでは行かぬと虚勢を張って、そんな俺を笑うだろう。それを思って俺も笑って、電話が鳴って飛び上がる。
「来た!だからいっつも早ぇよっ!あんた!」
デニムに足を取られてよろけて、それでも必死に電話のもとへ。もうすぐ王子に会えてしまうと、そんな幸せに包まれて。やっぱり今は続くのがいい。そんな笑顔で、弾む心で。
