切なく、悲しく、愛おしく
【26180文字】
視点交互。今回はかなり自分に気弱な番犬と、強情なくらいに頑固な飼い主です。多少?二人とも病み系ですかね。謎試練とそれの克服もので、でも構成そのものが肝なんで、あんまり事前説明が出来ません。ごめんなさい。2回読んでくれたら嬉しいです。個人的にはベッタベタのハピエンですけど、一応特殊タグ入れました。
長い割にはちょっと流れ的に端折り過ぎた感じもあるので、いつかやれたら書き直します。
元々表情が豊かな人ではあるのだが、こんな日の笑顔はいつも以上に輝いている。
「ありがとう。とてもいい下見になったよ」
不思議な人だといつも思う。
「はいはい。精々楽しんでくださいね。今週末の彼女とのデート」
こうして意識的に腐してみても、暖簾に腕押し笑うばかりで、いつも何かが腑に落ちない。
(あぁ、またこの感じ……本当になんかこう……変な気分)
咀嚼しかねる何かがじわり、腹の底から込み上げてくる。だから尚更不思議に思う。今この時を、王子と自分を。
*
俺の言葉は人より尖っているらしい。けれど気にもならぬとニコニコされて、なんだか妙な感覚になる。安心感のようでいて、俺など無力と歯牙にもかけない、そんな失礼紙一重。気分がいいのか悪いのか、これが不快か快なのか、痛烈ながらも取り留めもなく、なんだかそぞろ落ち着かない。充電、消耗、奇妙な過負荷、この感覚は整理不能だ。そう、この人、王子そのまま、そういう不思議なものだった。
「なあに?難しい顔をして」
*
王子は自分が大好きで、みんなも好きだと疑わない。それでも失礼があってはいけないなどと、俺を連れまわしてはプランを練る。
「やれやれ、さすがに遠かったねぇ」
「……」
「ん?」
踏み台を所持して本番に備える。そういう失礼を笑って行う、どうにも奇異な人だった。
「何?」
「いえ、別に」
「あれかな、ちょっと酔っちゃった?」
俺は下見に付き合わされている。そもそもそういうタイプじゃないのに、お人好しの馬鹿とも思う。
「つうかこんな天気じゃ……海岸沿いのこじゃれた店ってせっかくの前振りも」
「台無し?」
「なんか趣旨とは合わないのでは」
「趣旨?」
「ほら、こう甘いムードっつうか」
「ふふ、甘いムード?」
「何スか?」
「ううん、だって君の口から、そういう」
「あぁ?」
「嫌だ、怒らないでよ怖いから」
「はっ、どの口が」
思うがままを口にする。率直な態度を望まれてもいる。証拠に今この瞬間も、満足げな表情がふわりと浮かぶ。俺の無駄なこの饒舌は、王子がそういう人だから。
「そもそも降らない予報じゃなかった?今日は」
「やっぱあんたって雨男じゃねぇッスか?」
眉を寄せる王子に更に言う。
「いや、マジで」
「ザッキーって本当に失礼だよね」
苦笑ですらも心地よく、気持ちが頭に届くより先、言葉が口から流れ出る。それを望まれ、許されている。心が上擦る不思議な感覚、高揚感にも少し似ている。
「料理、あんまりよくないかい?」
「まあ、店のコンセプト自体は結構いいけど……当日の予報は?晴れッスか?」
「当日?」
「今週末ですよ。ま、あんたと同じに天候次第の気分次第?バクチみたいなもんッスね」
ともあれ、不遜さ自体もいいらしい。
「ここを選ぼうとしたあんたの気持ちとか、そういうところへの想像力が貧弱な……まあ王子の選んだ人なら大丈夫かとは思いますけど、見たまんましかわかんねぇ相手なら避けた方が無難かと」
室内の暖房は快適で、外の嵐が嘘のよう。まるで、そう、王子のよう。王子の吟味とセンスの良さは、誰にも通じるものだろう。そんなことなどわかっているのに、時に皮肉も混ざってしまう、俺の言葉に何を見るのか。
「そんでも晴れるに越したことは」
「……」
「ん?王子聞いてます?」
「聞いてるよ」
飾りはいらぬと微笑む王子は、あまりに揺るぎなさ過ぎた。おっかなびっくり突っかかろうとも、軽くいなされる気さえする。安寧のようなものが心に広がり、その安寧が不安にさせる。外の嵐は現実で、中の穏便はさながら夢だ。王子はいつも夢か幻、俺は何に怒っているか。何がそんなに恐ろしいのか。
「それにしてもここの飯、旨いッスね」
「うん、そうだね。よかったよ。それが一番肝心だしね」
「シェフ、どこぞの有名店で修業してきた系っスかね」
「うーん?さぁねぇ、どうだろう?」
食べている姿を見るのが好きだ。料理は芸術、美しく、王子が刻めばますます綺麗で、優雅な手付きでその口元へ。ゆっくりうっとり咀嚼して、惜しむみたいに嚥下する。なんだか妙な気持ちになりつつ、ついついそれに見惚れてしまう。
「結構、量ありますね」
「そうだね、思った以上にね。でもこれくらいなら平気でいけるよね?」
「そッスね、俺らなら」
満足そうにしている王子に、やっぱり一言、言いたくもなる。
「でもね、王子」
「ん?」
「小食の女にはさすがにこの量、きついかも」
何を腐したいというのだろう。何がモヤモヤさせるのだろう。言いたくないのに、言いたくなって、言って、それに戸惑いがある。それでも王子は。
「……そうかもね。でもその辺は全然心配いらない。快活に食べる子が好みだし、彼女もそういうタイプだし」
「そ、スか……」
「うん、でもありがとう」
美味しい食事。綺麗な男。窓の外など関係がない。楽しい時間。夢の時間。これはただの、仮の時間。それでも王子と二人で過ごす、俺にとっては大事な時間。
「……本番、いい日になるといいッスね」
この一言は役目の言葉。心掛けて言う礼儀。何度繰り返してきたことだろう。もうそんなことは忘れてしまった。
潤みを増した王子の瞳は、何か、どこか、遠くを見つめ、その口は噛みしめる様に一言一言、囁くように、静かに言う。
「じゃあ……祈っててもらおう。そうなるように」
王子はそう言い目を細め、そう、その日を夢見る男になる。
「……頼むね、こんな雨降りがいい」
どこか物憂い、恋煩い。穏やかにさえ見える激情。
「完璧を求められるのは続くと疲れる。残念なことも受け止め合って、癒し、そして癒されたい」
こんな姿を見る度に、飽きもせずに毎回驚く。こういう面があるのだと、そう、想い人を乞うてやまない、真摯さがこの人にあるのだと。
(本当に、一体なんだっていうんだろう、この……)
驚きは痛みととても似ている。体の中には冷たく硬い、重りのような負担があった。
「きっと素敵な一日になる。君が祈ってくれるなら」
俺は本当に性格が悪い。王子の健気な恋の姿に、どこかがささくれだってしまう。
*
彼は自分を誠実という。二股三股も当たり前の男が、何を言うかと呆れてしまう。でもこうして女性達との幸せのために費やす準備や気持ちに、王子の心の誠実を見る。多情な自分を受け入れさせて、相手の自由を許さない。理不尽で残酷な王子の姿勢を、なぜ彼女らが許すのか。それは想い人を胸に宿し笑う王子が、こうも素晴らしいからに違いなかった。愛を得られる立場であれば、己を不幸と呪えない。まるで麻薬、かえがたく、嫉妬すらも溶かすのだろう。そんな身近な悲喜劇に、勝手に心が割かれてしまう。王子が招く天国地獄、彼はあまりに無自覚であり、弔う心の欠片もない。
(……みんなひたすら幸せだ。被害者のいない犯罪だ。それのどこが悪いって?)
誰にも王子を裁けない。極上の魅惑の罪咎なんぞ、天も絆されもしようもの。現に俺すらこうなのだから、この微笑みには敵などないのだ。
*
(楽しかったはずなのに……)
王子に付き合わされた夜はいつもこうだ。ざっくりと抉られたように心が虚ろになる。王子に誘われるのは午後練の日の前日で、それだけは本当に助かっている。
(今日は何時に寝付けっかな)
異様なほどの倦怠感。わけのわからぬ感情の渦。理解不能な焦燥と、渇望のようなソワソワ感。香りと気配のようなもの。すぐそこにあったはずのもの。そしてそのすべてが錯覚なのだ。
(あんなに幸せそうな笑顔を浮かべて、週末誰と会うのだろう。二人で楽しく食事を済ませて、その後何処へ行くのだろう)
下世話な妄想が止まらない夜、俺の馬鹿に拍車がかかる。
(ああ、こんなの考えたくもないのに……)
おねだりされたりするのだろうか?どんな風にそうなるのだろう?駄目だと本気で思っているのに、どんなやり方より激しく昂ぶる。王子の女に成りきって、こんな性癖、誰にも言えない。
(どうしてこんな……俺って本当に変態だ)
疚しさと後ろ暗さに身悶えながら、沢山心を傷つけながら。
(性欲なんてなければいいっ)
「んぅっ……っ」
やがて人(王子)をも穢す邪悪なものが、ドロリと軸から溢れ零れた。何にも向かわぬ慰めが、俺をとことん卑しくさせる。怖気が立つほど気持ちがよくて、頭の中が白くなる。女に成りたいわけでもないのに、現に体はこういう形で、けれど王子が愛するみたいに、誰かに愛されてみたかった。真摯で蕩ける甘い笑顔で、大丈夫だよと優しく強く、体の外から中までも、愛に満たされてみたかった。この身で、全部で、感じたかった。
(寂しい、寂しい、潰れそう……)
いざこざなんて日常だった。俺は、俺の思う俺の位置とは違うところに立っていて、己を律し、叱咤をし、いつもたどり着かねばならなくて、泣き言なんてもってのほかで、愛だの恋だの性欲だの、そんな猶予はないのだと、あまりに無意味と切り捨て続けて、なのに今更、ひょんな形で孤独と惨めに気付いてしまった。遥か上を行く王子の、愛を見せられてしまったからだ。あの人の世界にはすべてがあって、俺とはまるで違う世界で、あんなに豊かで、幸せそうで、そして一方この俺は。
(愛とか、恋とか……)
羽毛のようで、シャワーのようで、日差しのように暖かそうで、けれど王子の薄っすら笑う目の奥、火傷しそうに熱くも見えた。次元の違う生活水準、食べたこともない高級・上質。無知と今を自覚させられ、香りと気配にみるみる包まれ、ただただ飢えて涎が垂れた。俺の手の中は空っぽで、今は汚くべとついて、ひんやり、あまりに情けなかった。
*
そうと解釈すれば腑に落ちることも、認めてはならないこともある。ないものねだりはただの無駄。やるべきことは目白押し。
(現実を見るのは諦めじゃない。踏まえて生きてく。ただそれだけだ)
昨晩、あのまま一人でいては駄目だと、部屋を飛び出し延々走った。笑み。声。指先。仕草。振りきらねばならない渇望はあまりに多く、小雨降る深夜へとへとになるまで走り続けて、気付けば夜が明けていた。体調管理はプロなら義務で、こんなになってしまうのならば、もう二度と他人の愛を覗き見るなど、下世話はやめるべきだと思う。
(そうだよ、あそこは俺の世界じゃない。あれこれやるほど器用じゃねえし、一つのことでも叶えば俺は)
気軽に深みに堕ちてはいけない。人の愛を借用するなど、道に外れた消費行為だ。愛だの恋だの性欲などに、溺れていられる暇などない。
(つか、王子も王子だ……なんて顔であんなに笑っ……駄目だ忘れろ、集中集中)
素敵な日とは?癒しとは?手抜かりのないもてなしの準備の日々の、目的は一体何なのか。いっそ清楚な笑みのその奥。考えたくない。止まらない。性の邪、体の構造。
(……王子も欲情するんだろうか)
「ん?僕が何をするって?」
「!?」
ウォーミングアップ時のジョグで王子が俺と並走することなど今までなかった。急に現実に引き戻された俺はまともに言葉も出せないでいて、王子はそれを見てふき出して、それがはじけるような明るさで、俺の顔を真っ赤にさせる。
「珍しいよね、君がこんなスローな……どうしたんだい?お疲れかい?」
昨日の夜を揶揄された?そんな錯覚に朱に染まる。隈があるよとでもいいたげに、自らの目元に指を置く、何も知らない笑みの煌めき。目は思惑を映さぬ不思議さ、手指は真作・造形美、爪の血色は命を表明、吐く息にあわせて揺れる黒髪。
(はっ、駄目だ駄目だ!)
焦って首を左右に乱暴に振る。
「え、話がまだ」
昨晩のように王子を振り切り、ついでに前の皆をぶち抜き、終着点を抜けてようやく、俺は走る速度を徐々に緩めた。最後は止まって膝に手を置き、肩で息をする羽目になる。
周りに、
「何をやっているんだ」
と言われるまでもなく
「どうしたんだ」
とも問われる前に、
(全部俺が言いたいことだ)
と、ぎゅっと目を閉じ歯を食い締めた。
(散々な一日だったな……)
心配、からかい、好奇心。クソくらえだとシカトした。うるさい、ただただそれだけの、失礼な態度になってしまった。ぼんやり帰路につきながら、通りすがりに王子に言われた、他愛無い一言を思い出す。
――そういうこともあるよねザッキー
おそらくはただの幻聴だ。でも実際そういう空気があった。何故なら途中から俺のやる無茶苦茶なことに関して、周りが何もいわなくなった。意図的なのか、無意識か、王子の仕業に違いなかった。そこにいるだけで場が収まって、乱れた空気が調和していく。
(あ、また……)
呼吸が苦しい。酸素が足りない。意識して深く息を吐き、丁寧に腹の奥まで空気を吸った。本格的に調子は崩れて、助けて欲しいと誰かに祈った。
(誰かに?俺が他人をあてに?……本当にどうしちまったんだ……)
*
「そこ、お酒の美味しい店で」
と誘われたのは、めずらしく試合後のリハビリ日のことだった。そう、いわゆる週末、本来は王子のデートの日。
「いや、今日は俺……」
「え?」
俺はもう限界で、ともかく王子とは出掛けないと心に決めた。
「悪いンスけど、調子もどんどん上げてかねぇと。だから王子とそういうのはもう」
嘘も逃げ口上もタチではないが、気がないという思いが通じてくれさえすればよかった。
「待ってザッキー、どうかした?」
なのに王子は何故いつもそうなのか。
「そういう冗談シャレにもならない。やめなよ悪趣味過ぎるから」
何故、この人は読める空気をわざわざ無視をするのか。調和の力をもってして、何故かき乱すような真似をするのか。キャンプの遅刻、試合のリタイア、堕とし入れるつもりのない目で、有無を言わせぬ魅力の無邪気で、俺をなんなく絡めとる。
「いや、だから冗談とかそういうんじゃないッス王子」
「まあいいや、とりあえず行こう?道が混んでくる前に」
何故、この俺が逆らえもせずに言葉を飲むのか。何故、思うように動けないのか。王子になりたい。王子にされたい。俺は実に混乱している。一緒の時間が増えるほど、意識が濁って泥水になる。
(王子はなんでも受け止める?違う、きっとそうじゃない。この人が俺にしていることは)
俺が俺である大切さ。信条、信念、自我、自分。何よりも大切なこの俺が、王子にかき混ぜられていく。違う何かに変えられていく。そういう事実に思い至って、そこから急に恐怖が始まる。
王子は顎だけで俺を安易に誘い、勝手な速度で歩き出す。
「この前行ったあの店がいいかな。内装を変えたんだって」
俺はほとほと呆れながらも、振り向きもしないその姿を、何度付き従って行っただろうか。
(行くな……大丈夫、俺はちゃんと断った。約束は成立していない)
引っ張られるような衝動が襲う。強制力に抗う意思は弱くて、恐怖は足を竦ませる。踵を返して立ち去りたいと切に切に願うのに、自覚があるのに、誘引される。
(無理だ、今日行ったら、もう……完全に……)
ついてくると疑いもしないその背を、その信頼を。
(駄目だ……マジでこれ以上……)
俺はジレンマに陥って、その場で静かにスタックし続け、すう、と意識が遠ざかる中、そういえばどうやって息をすればいいのか、思い出せなくなっていた。
*
「大丈夫って言うんならいいけどさ」
骨付きのラムをナイフとフォークで器用に食べる王子の手つきには毎回感心してしまう。少しは俺もうまくなっただろうか。自分ではいまいちよくわからない。
「ほら、君の場合は何度も前科があるじゃない?」
王子とは沢山食事をした。でもこんな会話は初めてだった。頭に霞がかかっている。王子の声は静かなバラードのようで、ただ聞き入っていたかった。
「聞いてる?」
俺はおかしくて笑ってしまう。その呼気一つ、吸気一つ、何一つ漏らすまいとしているこの俺に、聞いているかと問うのかと。
(俺……どうしたんだろう……?)
何が起きているのかわからないままに、俺はふんわり満ち足りていた。
(本当に、なんか俺、一体……)
ここは、初めて二人で出掛けた時の店だった。さりげなくも素人目にもわかる超弩級の調度品に外装内装。世界が違う人だと感じた。接点なんて何もなかった。まるで場にそぐわぬ俺の様子を、王子は気にもしなかった。
(そう、本当に最初から不思議で……)
あの日と同じ笑顔と仕草で、王子は当たり前のようにそこにいた。
(ああ、なんて……)
王子の在り方を笑う人もそれなりに。勘違い人間、まるで何様王子様など。王子はいつでも変わらぬ笑顔で、そんな言葉は歯牙にもかけずに。でも、こんなにも自分が自分自身であるということに明解な人間はあまりいない。
「美味しい?」
ほとんど毎日顔を合わせていても、時々一緒に食事をしても、王子はかけ離れた人だった。同じ人間、同じ雄、同じサッカーのプロ選手。チームも同じ、攻撃陣、かぶる属性が多いほど。
「最近ウエイト落ちてるでしょう?食べてスタミナつけなきゃね」
愛されるためにいる存在。サッカーの世界だけを切り抜いてみても、王子のは俺の全部のはるか上で、知らない文化と料理と品位、未知なるデザイン、本物の価値、煌びやかながら普遍の王子。うらやましいとか、妬ましいとか、そういう私的な思い以上に、何もかもがあるそんな王子が、何故この俺をと疑問に感じた。俺の持ちうるなけなしを、何故思い知らせて奪っていくのか。いたぶるみたいに惨めにさせて。
(……いや、それは俺の卑屈さだ)
俺はシーズン中に飲まないほどにはストイックな方ではなくて、それを知らぬ王子でもなく、結局薦められるがままに酒を飲んだ。
「……ねぇ、なんか僕ばっかり喋ってない?ザッキー、本当に大丈夫?」
「何スかさっきから。大丈夫ッスよ全然」
「本当に?ちゃんと聞いてる意味わかってる?なんか時々また」
「くどいッス」
俺は小さい頃から負けず嫌いで、なのにどうしても敵わずに、それでも何故今心が満ちるか、なんとも不思議な気持ちであった。
(ああ、なんて『夜』なんだ……)
とても奇妙な空気の静けさ。まるで包まれているかのような。自然に笑いがこみ上げるのは、慣れない酒に酔ったのか。それとも俺が酔っているのは、一息で飲んだシャンパンではなく、不思議というよりいっそ不気味な、夜そのものの王子の瞳か。
*
俺は今、ベッドに横たわって王子を見ている。
食事を終えた後、
「大丈夫?」
と重ねて問われ、
「やっぱあんまり……つか、まあまあ駄目っぽいっス」
などと、自嘲気味に返事をしたのだ。
(なんで俺、あんなこと……)
俺は人の善意につけこむような、卑怯な者ではなかったはずだ。
(第一、王子だって)
そう、王子にしてみても、騙されるような人ではなかった。なのに真っ青な顔でその場に竦み、なんだか少し慌てているようだった。
「や、冗談ッス。ちょっと酔っちまったかなーってその程度の」
などなどべらべらと言い訳をし、そんな俺の腕をギュッと掴まれ、
「痛い、ちょ……離し……あれ?あ……?」
「待って、ザッキー落ち着いて?ねぇ、聞こえる?こっち見て?」
俺を呼ぶ声が遠ざかり、それからの記憶はあまりない。
値段も不明な豪華なベッド。窓の外には夜景が広がる。それでも窓辺に佇む背中がそれより遥かに美しかった。まるでCG、絵空事。王子はこうした現実味のない、浮世離れした景色が似合う。
(美味しいディナー、絶景の部屋。完璧だな……ここに居るのが俺でなければ)
気の遠くなる光景の中で、俺はとても迷子であった。王子と居ればいつでもそうだ。今日はまさに目が開いたまま、眠って夢でも見ているかのよう。
(……つかここ何処だよ。どっかのホテル?)
この男は手順にあまりに慣れていた。さもありなんと思うが半分、事実にあきれる思いが半分。当然みたいな自然な態度で、楽にして、と親切に、よろける俺を休ませた。服を緩めろ、靴下を脱げ、ふんわり優しく布団を掛けて、眠って?と優しく頭を撫でた。懇切丁寧、手厚い看病。俺は酒にすっかり負けて、色んなことがわからなかった。都合よく見た夢かもしれない。
(あー、悪酔い。頭ガンガンする……)
気まずくて、でも嬉しくて、ずっとこうしていたく思った。
俺がそれに気付いたのは、随分時間が経ってからだ。ガラス越しに俺を見る目を、ものの見事に見落としていた。夜景のあまりの見事さと、それにふさわしき手前の後ろ姿にすっかり心奪われていたからだ。それは薄目で、睨むみたいで、でも凝視と言うほど強くはなくて、見守るというより調査や観察、やや冷たさもあるものだった。俺の気付きに王子が気付くと、ふ、といつもの笑顔が浮かぶ。
「少しは落ち着いた?」
振り向けばもはやいつもの姿。明るく、艶やか、少し暢気で。もごもごと歯切れの悪い俺の返事に、わざとらしいほど大きなため息。
「もういいから、そういうの」
シャラップと怒鳴られたわけでもないのに、不安定な気持ちになった。
「ああ、ごめん、今のは忘れて。それよりも」
今日は脳への酸素が足りず、なんだか色々ぼんやりとする。何がいいというのだろう?それよりも何だというのだろう?ふかふかの上質なベッドの中から、何とも魅力に溢れた姿が見える。この美しいものをずっと静かに眺めていたい。あの目は、俺を見ないで欲しい。
(なんか、駄目だ……頭が……)
王子はゆっくり近づいてきて、真横まで来て見下ろした。その後ゆっくりベッドが沈む。王子が腰を降ろしたからだ。質量がある。当然なのに、そんなことに目を見張る。
「ん?」
と、優しく微笑まれ、どうしていいのかわからなかった。どこにもすでに逃げ出せなかった。なんだか体が動かせないし、ともかく頭痛が酷かった。
ひやりとしたものが額に触れる。
「今はまだ微熱程度だね」
それは王子の指先だった。冷やしてくれるつもりか手のひらがそっと俺の顔を包んで、なんだかとても変な感じがした。
「何?」
「……なんか母親みたいだなと」
ふ、と鼻で笑った割には王子の表情が薄暗く、そんなことが罪悪感を深めるので、やはり四の五のと取り留めもない言い訳をした。
「いや、心配かけちまって。俺、全然平気なんでもう帰りま」
「いいから」
起き上がろうとした俺を押し戻し、何かを言いかけ口を閉ざす。そういう姿に怯える俺を、宥めるみたいに王子が言った。
「動ける体調じゃないの、わかるでしょう?」
抑揚のない理性的な。
「そう、いい子だね」
頭を撫でて、体を撫でて、時々甲を首筋に当て。
「やっぱり……少し上がってきちゃったね」
「……王子?」
「大丈夫すぐに戻って来る。それまで君は大人しくそこで寝てること」
とにもかくにも頭が痛い。熱いというより寒くて震える。毛穴が開いてチクチク痛い。誰もいなくて心細い。
「お待たせ、氷を……どうかした?」
「……」
「寒いのかい?えーっと毛布はどこだっけ」
(行かないで)
「なに?ザッキー聞こえない」
(王子、ここに、一緒に、王子……)
「汗がすごい。暑い?寒い?どっちだい?」
何故か声が出てこなかった。
「……僕が誰かちゃんとわかる?」
(はぁ?何言って……?)
王子は俺の目を真っ直ぐ見つめ、その美しい微笑みはそのままながらも、否を言わせぬものだった。
(つか、王子こそ大丈夫ッスか?……俺、そんなには酔ってま……あ……痛っ……)
その目を見ていると頭痛が急に激しくなった。気付けば歯を食いしばり、震え、全身強張っていた。ギュッと閉じた目の裏側がチカチカしている。
「わかったよ、もういい、もういいからごめんねザッキー」
突然、抑えつけられているみたいに体が重い。視界が暗い。自由にならない。けれど少しも嫌じゃなかった。なんだかこれを知ってる気がして、いや、確かに知っていたはずだった。
(そう、この匂い……温かさ……)
*
ふと意識を取り戻すとなんだか眩暈がして、グルグル回る世界の中に意味深な表情の王子が在った。
「やあ、ザッキー」
返事がしたかったが喉がかさついていて、口先だけで『王子』と形をとるだけになった。なんだか色々はっきりしない。
「まだ夜だよ。眠ろうね」
瞼を閉ざそうとする手のひらがまるで氷のような冷たさだった。水音のする枕も冷たく心地良く、何かを乗せられた額も気持ちが良かった。
(王子……また俺……)
「大丈夫、平気。心配しなくていいからね」
自分が何を言っているのか。そして平気の意味は。これは悪夢か、それとも吉夢だろうか。頭痛は消えない。起き上がれない。怖い。不安だ。けれどすぐそこにこの人がいる。
(王子……)
彼は自分が誰であるのかを俺に問い、俺はいつまでそれをこたえられるのか何故か急に不安になった。王子、王子、この人は王子。俺の飼い主。大切な人。
「大丈夫」
(大丈夫……)
たくさんの大丈夫に包まれて、再び意識が途絶えていった。
*
(え……あれ?これ……ここ……え?)
目覚めたら、夢だと思っていたものの半分くらいが本当であることに気付かされた。謎の部屋。氷枕。濡れタオル。ベッドに突っ伏しながら眠っているチームメイト。熱はすっかり下がっており頭痛も治まっていたが、まだまだ頭がはっきりしなかった。
(……夢、だよな?恥ずかしいっ!俺なんか寝言とか言ってたかな!?)
願望丸出しの下世話な夢だった。
――大丈夫、ザッキー愛してる
大丈夫という度に王子が俺にキスをして、抱き締められ愛を囁かれる夢だった。氷を含んだ王子の口の中はとても冷たくて、二人で溶かし合った水分は甘い気がして美味しく感じた。冷たいのに互いの吐息はやや熱く、その熱さにますます頭が朦朧として、ついにはとてつもないことまでねだってしまったような。
(やめろ、思い出すな!こら、お前もだ鎮まれっ)
夢と現実がごちゃごちゃに混ざってしまった夜。でも、今この朝は多分、正真正銘の現実の朝だと思う。
*
「もう君と飲むのはやめておくよ」
出されたパンをむしゃむしゃと食べている俺に王子が言った。話によるとどうやら俺は自分でも想像以上に悪い酔いをしていたらしく、家まで送ると言った王子に駄々をこねて、
「どうしても来たいって。もう。参るよ急に」
「すみません……」
人が愁傷な態度をしていれば調子に乗って、身振り手振りで大袈裟に?昨晩の出来事を語り続けた。
「帰れって言ってもやれ頭が痛いだの熱があるだの暴れてさぁ?挙句に看病ごっこまで」
「……はあ」
「しつこいし僕もいい加減眠くなっちゃってそのまま寝ちゃったし。もう最悪」
腐している割には王子はとてもご機嫌で、最後には俺もしょんぼりとイライラを通り越し、苦笑とため息、色んなことが馬鹿馬鹿しくなった。
「やっぱりあれだね、僕が君と飲むのをやめるんじゃなくて、君自身もちょっと自重した方がいいかもね」
「まあ、それは確かにそうッスね」
「あれ?素直?」
「断酒とまではさすがに。でも、最近結構寝不足で、体調悪い時はこれから気をつけます」
ははは、と笑いながら言った俺の言葉に、何故か王子は、
「寝不足?いつ頃から?」
と真顔になるので、つい言い訳が必要になってしまう。
「や、そう大した話じゃ」
「駄目だよザッキー。どうあれ睡眠はちゃんと取らないと」
「わ、わかってますよ」
「わかってないよ」
「わかってますってば」
「ザッキー」
「……っ」
「じゃあ、言い方を変える。眠れなかったら何時でもいいから連絡して?」
「は?」
「僕が君を寝かしつけてあげる」
「何言ってんスか?子供じゃあるまいし」
「騙されたと思って、いいから、ね?」
僕の声には催眠効果があるらしいだのなんだのとまた王子の楽しい出鱈目話。冗談なのか本気なのかいつも王子はこんなで、俺はこういう時間がとても楽しくて、ああ、だからこんなにも一緒に過ごしていたい。会話たっぷりののんびり朝食。なんて幸せな今なのだろう。
「さて。昨日はえらい目にあわされちゃったことだし」
うーんとひと伸びしてシャワーを浴びてくるなんてにっこり笑い、
「君も次どうぞ?どうせこの後の予定とかないんだろう?せっかくだからのんびりしていくといい」
なんて、俺が嬉しくなってしまうようなことを言う王子。
「着替え、また出すから。それ洗濯ね」
*
ソファに半分寝そべる形で王子が優雅に寛いでいる。
(なんかこう、いちいち絵になるのが腹立つな……)
俺の視線に王子が気付いて、
「ん?」
なんて微笑んでいて、なんだか胸がギュッとした。こういう時に癖が出る。変に腐す悪い癖。
「あれっスね、なんか女性向けの恋愛シミュレーションゲームみたいな」
「ゲーム?」
「わかんねぇんだったらいいッス別に」
「意地悪。教えてよ」
おいでおいでと手招きされて、始まる他愛無い二人の話。
「あるんスよ。そういう攻略系の」
褒めれば当然みたいな顔をして、まあね、なんて喜んでいて、嫌味を言ってもにこにこ笑い、ああ、王子だなぁ、としみじみ思う。
(まあ、そりゃちょっと癖があるけど、落ちない相手はいねぇよなぁ)
昨日は看病してくれた。記憶はなんだか朧気だったが、その親切は骨身にしみて今でもちゃんと残ったままだ。
「それにしても良かった。元気になったみたいで」
「とんだ迷惑をおかけして」
「やめてよ、そんな他人行儀」
「でも」
「いいんだよ」
王子は犬を大切にする。具合が悪いと心配し、恋の悩みを共有し、日がな一日だらだらと、奇妙で不思議な魔法の時間。
「君が大変な時に一緒で良かった。隠すし、すぐに我慢しちゃうし、もう少し頼ってくれていい」
「……」
「出来ることならなんだって。迷惑だなんてとんでもない」
当然みたいな顔をして。
「うわぁ……なんかこう、むちゃくちゃ聖人君主的な」
まあね、なんて喜んでいて。
「あんたがその顔で言っても、うさん臭くて気味悪いッス」
嫌味を言ってもにこにこ笑い。
「でもこういう感じがたまんない?」
「たっ……?いやだから、なんかこう、うわぁ……王子だなぁ……っつう感じッスね」
「あはは」
「褒めてませんよ?」
文字通りのんびりとした時間を過ごした。それはとても穏やかな一日だった。
それでも王子は帰りがけ。
「ごめんね?無理に誘って」
「……いや、別に」
「ううん、今回は全面的に僕が悪い。だって完全に君ガス欠していたし」
いつものようにその指先が、俺の髪に優しく触れる。思わずひくんと強張ると、王子は僅かに首をかしげた。
「いいんです、一緒に居ると楽しいですし」
「……本当に?」
「そりゃ、つか嘘とかつく必要もないでしょ、そんなこと」
「ザッキー」
王子は両手で頬を挟んで、俺の顔をジッと見た。
「え、あの……?」
「……」
「王子?」
見たことのない不思議な表情。いや、記憶にある気もする。床が足元でぐにゃぐにゃしている。王子が俺の心を覗く。
(あ……、やめ……見ないで、王子……)
「ねぇ、やっぱり送っていくよ」
気付けば俺は靴を履いている途中で、心配性の王子を笑って宥めて、なんだか変な感じがしつつも何故かどこか急いていたので。
「駄目駄目。それより彼女に連絡してあげないと。会えなくてもそういう手数が大切ですし」
「また攻略ゲームの話かい?」
「そうそう、現実も似たようなもんでしょ、多分」
「んー、……どうだかねぇ?」
「お?何スか?自信なさげな珍しい」
「失礼だなぁ、自信はあるよ」
「ま、でしょうね?ごちそうさま」
「それはいいから、やっぱりザッキー」
「帰れますって。子供じゃねぇんだし」
「そもそも論だよ。最寄りの駅とか、っていうか大体エレベーターの場所すらわかんないでしょ」
「それくらい調べれば、王子っ、あー、しつこすぎ」
結局一緒に家を出て、王子は笑い、俺も笑って、それがとても嬉しくて、離れがたくて、切なく思う。
(ああ、まだた、この感じ……嫌いじゃないけど、好きじゃない)
週末、ずっと二人で過ごした。まるで夢のようだった。
(王子、ああ、心が王子で一杯だ……)
夢のように幸せだった。
*
俺は王子に看病された。汗を拭われ、着替えをさせられ、額に触れられ、手を握られた。
「大丈夫だよ、ここにいるよ」
と、その囁きに安堵しながら、落ちるみたいに深く眠った。まるで俺だけのための人のように、俺だけしかいない人かのように、確かに彼はそこにいた。
